■見よ、主のしもべ達を/使徒4:16~31
第二コリント6:2節
神は仰せられた、「見よ、今は恵みの時。見よ、今は救いの日。」
この「見よ」とは、今生きているこの瞬間、この環境、この時間に於いて、上なる神を見上げよ、である。
イザヤ書49:8
主はこう仰せられる。
「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」
もし、あなたがクリスチャンであるなら、主があなたに臨んだ過ぎし日を思い出して欲しい。
あなたの魂に語り掛け、あなたに霊を賜り、臨まれた主キリストとの出会いの日を。
もし未だ、あなたが救われていないとしたら、あなたに救いを与え給うお方が、あなたの心に問いかける時が来る。
それはいつなのか、誰にも分らない。
どのようにしてかも分からない。
やがて後、知るのは、あなたとあなたのキリストだけである。
その時にあなたが何をしていようと、何を考えていようと、「神の時」到るなら、それは必ず来る。
旧約聖書の中で年代は異なるがヤコブという人と、モーセという人が登場する。
この二人、時代も環境も生き方も違ったが、共通点があった。
一つに二人とも逃亡者であったということと、両者共にヤハウェなる神信仰に希薄だったということである。
逃亡者とは神の前から逃げ、運命からも逃げていたということだ。
ひとはいつだって、神の前から逃げる。
なぜか逃げる。
それは自分のしたことが、神に対して恥ずかしいからか。
二人とも、神の前から逃げた積りで、荒野に生きていたのだ。
だが、荒野にも神はおられた。
ずっとずっと神は彼らの上におられたのだ。
彼らに信仰の芽さえない時から、神は彼らを待っておらえた。
一番の大切な問題は、「信仰とは人から出ることではなく、それを与えるは主である神」であるということだ。
人が先ず考える信仰なら人間中心の理念と地に帰する結末であり、神が下さる信仰なら永遠へとつながる。
それは当然であるが、二つには完全に天と地ほどの違いがある。
かけ離れ過ぎていて、比較も出来ないということだ。
残念ながら、地に生まれついた私たちには、天に届く梯子も、宙を駆け巡る信仰も思いつかない。
他方、御霊なる神から生まれた信仰は、地に基づく道理も手段もまったく必要ない。
ヤコブもモーセにも、まず出会って下さった方は、ヤハウェという神である。
その方を見上げるべく、イザヤ書もコリント書も「神を見よ」といっているのだ。
基本的に私達は何を見ようと、何をしようと、取り敢えず自由である。
但し、自由には前向きな自由と、否定的な自由がある。
前向きな自由に生きようとするなら、人間は力と思いが必要である。
否定的な自由に向かうなら、エネルギーなど大して必要ではないし、必要なものは退廃的観念で十分かもしれない。
私が若い日には、否定的な生き方と知らずに、否定的に生きていた。
だが、気持ちのどこかで光りに向かっているとは知らなかった。
欲しいものの為には努力もしたが、本当に価値あるものには目もくれなかった自分がいた。
自分がクリスチャンになって暫くしてから、そういう自分であったと、イエスに見させられたのである。
それを「若気の至り」とは呼ばない。
それは「単なる罪びとの道」とでも言うしかないだろう。
最たる原因は「キリストを知らなかった」ということなのかと思う。
つまり、クリスチャンになったから、皆がキリストを知っているのではない。
キリストを避けているクリスチャンだっていないとは思わない。
遠い昔のヤコブだって、モーセだって、仮に時代を重ねれば「キリストをよけていた」のかも知れない。
事実、聖書に登場する多くの人が、キリストをよけて、さけていた。
ニーチェという哲学者が言ったそうだ「神々は死んだ」。
私はあながち間違っていないと思う。
イエスは確かに死なれたのである。
但し、彼は死んだが、見よ、主はよみがえられた。
神であるから少しもおかしくないではないか。
神が、あの慈し深い神が、こんなゴミのような私の為に、血を流し苦しんで死んでくれたなんて。
勿体なくて堪らないではないか。
イエスを信じる者は救われる!
キリスト教の根幹はここにある!
よみがえられたから、クリスマスが始まった。
よみがえられたから、信徒が起こされ、聖書があり、教会がある。
すべては「イエスがよみがえられた」ことにある。
彼こそ神である!
あなたは本当に神と和解しただろうか?
クリスチャンであるなら当然であると思うが、当然でない方もいるのだ。
非常に大切な問いである。
中には和解したかも知れない、と言う人がいて、でも喧嘩もしないと言う。
信仰の道は喧嘩の道でもある。
喧嘩の相手は、もしかしてイエスかも知れない。
同時に喧嘩の相手は自分かも知れない。
どこの誰かではない、あなた自身が喧嘩の相手であり、イエスとの喧嘩が信仰を押し留めていると言ったら、あなたは怒るだろうか。
これって、単に私の経験だけなのだろうか。
「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」イザヤ49:8