■出会いの継続/ヨハネ3:1~7
ヨハネ福音書3章1節『さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。』
パリサイびとはユダヤ教の中でも原理主義、律法に関して非常に熱心で活動的な教団であった。
彼らは聖書の中でも、常に、ことごとくイエスに対して否定的・攻撃的態度を取った。
イエスもまたパリサイびとに対しては、律法に対しては表面的繕いで装った戒律主義を厳しく戒めておられた。
マタイ23章1節でイエスが語られた言葉、「律法学者、パリサイびとの言うことはみな、行い、守りなさい。けれども彼等の行いを真似てはいけない。」
パリサイびとに対するイメージを如実に表したものだった。
但し、聖書には少なからずイエスを信じる人々がいたとある。
だが、その人たちは「そのこと」を公にせず、自分の中だけで満足していたらしい。
それは彼らが仲間のユダヤ人の目を恐れていたから。
だが、マタイ3章に登場するニコデモは凡そパリサイびとらしくない人だった。
そしてニコデモはユダヤ人の指導者という立場であった。
ある晩、ニコデモはこっそりイエスを訪ねて言った。
「先生、私たちはあなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたが為さるこの様なしるしは誰も行うことができません。」
おそらくイエスよりも20歳程度は年長だったと思われるニコデモは、既にイエスが単なる普通の人ではないことを見抜いていた。
ニコデモはイエスを「先生」と呼んだが、ここに彼のイエスに対する謙虚さを感じる。
指導者でありながら、柔軟性があり、謙虚な人だったということだ。
私達はクリスチャンとして生きていても、時としてパリサイびとになってしまう。
ま、パリサイびとではないとしても、パリサイ的なら「もしかして・・・」当たっているもしれない。
ニコデモはイエスの本質性に触れようとした可能性があるが、それこそが律法に関るパリサイびとの指導者としてはタブーな事案であった。
「何よりも、神があなたと共におられるのでなければ・・・。」
こんな言葉をパリサイびと仲間の誰かが聞いたとしたら、とんでもないことになった筈だ。
つまりユダヤ教指導者という立場からは考えられない踏み込みなのである。
しかし、ニコデモは既にボーダーラインを大きく踏み越えていた。
では、ニコデモが持っていたスピリットに関する敏感性を私たちはなぜ恐れるのだろう。
ニコデモの謙虚さと、プライドに頼らない素直さを私たちはなぜ回避するのだろう。
イエスは彼にいわれた、「アーメン、アーメン、(まことに、まことに)あなたにいう。人は新しく生まれなければ、神の国を見ることは出来ません。」
ニコデモが知りたかったのは、イエスがどこから来て、どこへ向いて行くのかであった。
それが神からなのか、若しくはイエス自身がどこへ向かうのか。
だがイエスの口から出る言葉は「生まれ変わる」とか「神の国を見る」とか、ニコデモにとっては、どこか見知らぬ国の会話にしか思えなかった。
だが、イエスはニコデモが無意識のうちに本当に知りたかった問いに答えておられる。
「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くのかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」
確かに理解するには程遠かった。
しかし、それは同じ方向を見たい、知りたいニコデモと、神の国を教えたいイエスの一致した方向だった。
そしてイエスは遠くて近い、神とひとの距離を飛び超えてやって来られた方だった。
人間の想像では及ばない遠い宇宙の果てほど国でありつつも、もし神によって生まれ変わるならば、今生きる此の場所で、触れることさえ出来るのに、と主は仰せられた!
律法では果てしなく遠い地の果ての様なところであろうと、イエスを信じて受け入れるなら、あなたは神の国を見る!
まことにアーメン!なのだ。
今、このメッセイジを読んでおられるあなたは神の国を見ておられるだろうか?
今、というこの瞬間において、あなたは神の国を見ておられるだろうか?
それはあなたが正しい、良心的なひとだからか?
ノーメン!!である。
あなたが神の国を信じられるのは、間違いなくイエスがあなたの主だからであり、イエスがニコデモに語っているその場所にあなたにも語っておられるからだ。
イエスは「誰であろうと、生まれ変わるなら、あなたは神の国を見る。」といわれたのである。
彼は誰であっても、たとい生まれ変わっても、あなた方には神の国を見ることは出来ない!とはいわれなかった。
今から42年前の元旦、生まれて初めて教会の礼拝に座っていた。
参加であって実際は参加したのではなかった。
身体だけが礼拝の椅子座っているのであって、他には何もない。
壁に掲示された聖句も、牧師の説教もまったく届いてこない。
記憶にもない。
理解もしない。
何故なら私が自らに誓ったことは、聞かない、読まない、信じない、関らないということ。
そんな私の内を知ってか、知らずか、教会の誰も私の目の前で聖書を広げ、私に近寄って来る人はいなかった。
寄らず触らず、当たり障りのない会話だけ。
多分、私がそういう空気を醸し出していたのだろう。
二カ月と12日間、「耳無し芳一」の物語の様な私の前に、主イエスが立たれた。
と、今ではそう思っている。
それが一番自分としても理解し易い景色と思ったからだ。
時間的にどれくらいか記憶にない。
そこそこ長くて、そこそこ短いものだった、程度。
イエスは私の魂に問われた。
あなたはアブラムをどう思う?
あなたはアブラムの信仰をどう思う?
あなたにはその信仰があるか?
いきなりの問いかけ、いちいち答えられなかった。
結局はすべてがNOだったからだろう。
だが再訪は10時間後にやって来た。
その夜、10時頃・・・
主は私の奥にあるドアを激しくノックされた。
突然であり切れ目なく。
苦しかった。
外へ押し開きたい・・と感じた瞬間、殆ど何も意図せず妻に言った。
「俺も、この聖書の神に賭けてみたい・・」