■この矛盾の世の中で/マタイ2:7~23
この世は矛盾なのだろうか、と考えて以来、矛盾があって当然の世の中だと思うようになった。
人間自身そのものが矛盾そのものなのだから。
そういう人間世界で何とか生きて行こうとしている私たちはタフにならないと生きられない。
タフになるとは取り敢えず、矛盾を受け入れることから始まる。
完全否定でもなく、完全肯定でもない。
ある意味、「いい加減」にとどめておいて、時間を掛けて考えることかも知れない。
矛盾とは「つじつまが合わない」という類語でもある。
世の中は何と「つじつまの合わないことばかり」なのだろうかと思う。
そう思う自分こそが矛盾そのものであることを認めざるを得ない。
矛盾だらけの世であるからこそ、多種多様な人たちが同じ時間帯に生きられるのだろう。
大分昔になるが、故忌野清志郎さんが作った「あの娘の神さま」という曲がある。
それを今週は礼拝で流した。
間違いなくゴスペルではない曲。
ゴスペルの対極。
私自身もちょっとは度胸が必要だった。
歌詞はイエスさまに彼女を奪われた男の悲哀を歌ったものと思う。
「付き合っていた彼女に心の隙間があったなんて、まったく考えなかった僕は何と情けない奴・・・。」
だが世の中で決して少なくないケースでもある。
その時点に立たされた男性が感じること、誰にも共通した悲哀感があるだろう。
まあ、他の男性に彼女を取られたことより「増しか否か」は分からない感覚が残る。
最後のフレーズに彼の恨みがましい思いが滲む。
「毎日の中で・・君の神さまを恨むよ~
君の感性を恨むよ~
君の教祖さまを恨むよ~
この世の奇跡を恨むよ~」
どれだけ恨んでみても解決の道などない。
思わぬ落とし穴とは、何と何と目に見えない相手だったとは・・・
だから余計に悔しい・・・
だが、仮に自分自身が救われた当事者側だったとしたら、これぞ「人生代打逆転満塁ホームラン」である。
見えない方だからこそ出来る「この世の矛盾の一掃」である。
そう、今こそイエスなくして生きられないどころではないのだ。
自分という存在の意味、生まれ出でた意味、今日まで守られた意味、矛盾だらけの人生だったのに、断片ばかりの人生だったのに、見事にすべてが一本の見えない線でつながったのだ。
イエスという存在で・・・
イエスのお誕生記事に続く聖書はこの世の矛盾そのものを伝えている。
ヘロデ王は東の国の博士達に騙されたと知って怒りに怒った。
そこで王はベツレヘムの二歳以下の赤子達を皆殺しにせよ、とのおふれを出した。
目を覆わんばかりの惨状だった。
その頃、幼子イエスはマリヤの胸に抱かれ、ヨセフの引くロバの背に乗ってエジプトへ辿り着こうとしていた。
思わず、サタンの呟きが聞こえて来そうだ。
「ほら見ろ、神はイエスを救えたのにベツレヘムの幼子は救へなかった・・・」と。
マタイ2章18節、エレミヤの哀歌がある。
「ラマで声がする。
泣き、そして嘆き叫ぶ声。
ラケルがその子らのために泣いている。
ラケルは慰められることを拒んだ。
子らがもういないからだ。」
ラマという町はベニヤミン族の領土。
ベニヤミンの母はラケル。
ラケルはベニヤミンを出産する際に死んだヤコブの愛する妻。
遠い昔の出来事を哀歌として歌い、それをイエスの誕生直後の惨状話に添えたマタイ伝は悲しい。
これ以上の矛盾は無いと言える瞬間に挟んだ。
御霊の神はご自身の手で直接的介入はなさらないのだろうか。
地上の人間はロボットではない。
だが、ひとの心に語り、夢を通して主はひとの意思に囁かれる。
ひとの思いに、時と環境の中で主は慮り(おもんぱかり)を伝えられる。
ひとは神の御意志を受け入れる、聴きいれる信仰と度量が必要だ。
自我に先立つ耳と思考を持つひとが、果たして世の中にどれ程いるのだろう。
イエスを知って己と世の矛盾を知り、イエスを忘れると己も世の矛盾も見えなくなる。
だがイエスによって世の矛盾を受け止められるのも事実である。
人間はその生涯に渡って矛盾と向き合い、矛盾を乗り越えてゆく。
納得でなく、飛び越えることによって。