■人も動物も、みな入った/創世記7:1~16
「理論は信仰に先立たない」と、つくづく思った。
へブル11章に22回登場する言葉がある。
つまり、このヘブル書の記者の気持ちが嫌というほど伝わってくるのだ。
それは「信仰によって・・」という各節の書き出し言葉(英語by faith)である。
旧約のエノクから始まり、面々と列記される人々は、皆「信仰によって」生きた。
その対極に座する方こそが主と呼ばれた神であり、創造主であり、新約においてはキリストである。
人間が生きるところ、「信仰によって」人生を見極め営める人ほど、他者から信頼されるひとであろうかと思う。
理論は信仰の後に登場すべきものである。
信仰がなければ何事も始まらないとさえ言えるが、案外この世から好かれる立場にない。
であるからこそ、この世で生きるとしたら、キリスト信仰よりも理論が先立つのか。
ノアは信仰によって箱舟を造り、その信仰によって世を罪ありとし、彼は信仰による義を受け継いだ、と聖書は言う。
そして信仰が先立たない理論は人間が作り出した理論であるとさえ言えるだろう。
ノアは神のお告げを聞いて、家族共々救われるべき箱舟の建造に取り掛かった。
乾いた高地であって舟など必要もないような土地で、人々の嘲笑と愚弄を日々耳にしながらも舟造りは止めなかった。
それは唯一、神の裁きとノアへの救済を確信し続けたからである。
一瞬、一時だけの信仰なら私でも持てるかもしれない。
だが、何十年も同じ信仰を持ち続けることは生半可なものではない。
そして改めて思う。
そんなに長い間、同じ信仰を持ち続けることが出来るとしたら、神の圧倒的な関りと助けなくしては為し得ないということを。
舟が完成したとき、さまざまな動物たちが雄雌のつがいで箱舟に入ってきた。
想像しただけでも、勇壮で壮大な景観は目を奪われるものがある。
かれらは入ったのであって、乗ったとは書いてない。
箱舟は「救いの為だけの舟」であって、航海に出発するのではない。
単に入ればよい、のである。
だが、それが本当に難しい!
それこそがキリストの救いに入るのと同じ景色だ。
この日本では99%の人々が「入る」ことを出来ないでおられる。
それは救いという本質を知らないからだ。
私自身も42年前までそうだった。
だから、入らない気持ちは重々に理解できる。
ノアの箱舟は当時のコミュニティに大きな波紋を広げたと想像する。
多くの家庭においては口論の種であったかもしれない。
夫婦が、親子がもつれたかもしれない。
それでもノアの家族以外は誰一人箱舟には入らなかった。
それが当時の人間世界の実情であったのだろうか。
榎本保朗先生の書かれた本の実話から。
反抗期に家出し、チンピラとなり、喧嘩と騒動に明け暮れていた少年がいた。
大きな過ちの果てに相手が死んでしまうような事件に加担してしまった。
裁判では彼が少年であるため短期の鑑別所暮らしで済んだ。
だが引き取り手がいなかった。
幸いにある男性が事情を知って、引き取り手となってくれたおかげで少年は出所出来た。
しかし、塀の中で想像したとは別に世間の風当たりは強かった。
心を入れ替えた積りであったが、脆くも粉々に砕け散り、少年は再び悪の道へと戻りかけた。
そんな矢先、彼をもらい受けてくれた男性が烈火のごとく怒って少年を殴りつけ怒鳴りつけた。
「小指一本落とせない奴が大きなことを言うな!悔しければ小指をはねて来い!」
それを聞いた少年は踵を返して出て行った。
瞬間、男性はハッと思った。
折角今まで更生させようとして来たのに・・・・しまった・・と思った。
だが、既に遅かった。
幾分の悔いと不安と焦燥に包まれたまま、しばらくの時を過ごしていると、玄関の戸が開いた。
見ると、少年が立っている。
手拭でくるんだ手は血で真っ赤に染まり、見るからに痛々しかった。
少年はきっぱりと、小指を落としてやくざの道を断って来たのだった。
男性は少年に飛びつき、男泣きに泣いた。
少年も泣いた。
そして数年後、彼は立派に更生し、とある造船所で模範工として働いている。
榎本先生を訪問したのは、かの少年の引き取り手の男性だった。
先生は男性が帰ってからつくづく思ったそうだ。
『折角もらい受けてもらったのに、小指一本落とせないで、またやくざの中に落ちてゆく、その不甲斐ない者こそ、この私達ではないだろうか・・・
キリストの十字架の贖いと恵みを知りながら、小指一本落とせないでいるために、古い自分を断ち切れず、のうのうと生きている自分・・・
いつまでも死にきれず、ちょっとした苦しみさえも負いきれず、「私は不信仰で・・」などと言っていていいのだろうか・・・・』
創世記7章5節
「ノアは、すべて主が命じられたとおりにした。」