■黎明期/創世記5:3~24
黎明期という言葉、わずかに私の頭の隅の隅に引っかかっていたような言葉だった。
どこかで聞いたか、見たか分からないけれど、掘り下げてみたい響きある言葉。
きっとイエスさまが知らぬ間に置いといてくださったのかも知れない。
意味は「夜明け」とか「明け方」という。
それ以外では、「ある事柄が形となる前の段階」といった状況で使われる。
創世記一章1節~2節、まさに黎明期だった。
『地は形なく、何もなかった。闇が大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。』
総じていうなら、聖書における黎明期は幾度もあったような思いがする。
御霊なるお方が物事を始めようとされている頃。
人間は何も悟れない、知らず感ぜず、だが「神の時」が迫っていた、というふうに。
世の終わりは必ず来る、と聖書は言う。
それは再臨のキリストが来られる時である。
それをどれ程のクリスチャンが信じているだろうか。
それは今日かも、明日かもわからない。
だが、いつか必ず来る。
主にある信徒であるならば「主よ、来てください。」と言いなさい、と黙示録の最後の最後に書いてある。
「わたしはすぐに来る」とイエスはいわれた。
救い主イエスの黎明期は2千年前、いや既に創世記の初めで語られていた。
「キリスト者であるなら、どれだけ生きたかではなく、どう生きたかを知るべし、である。」
と昔ある本で読んだ。
そうすれば、今日をどう生きるべきかを考えるからであろうからだ。
明日でなく、来年でなく、今を、今日を見据えて生きるのがベストである。
「今が恵みの時、今が救いの日」(Ⅱコリント6:2)、これがクリスチャンの口癖になったとしたら、何と素晴らしいことだろう。
イエスを信じた、ということは、そういうことである。
エデンの園で人は罪を犯し、アダムとエバは「エデンの東」という地に追いやられた。
二人は汗して働き、食を得なければならなかった。
子育て時期には涙を流し、兄が弟を殺した事件では夫婦ともに泣き叫んだであろう。
「東の地」でやがて人々は増えた。
人々は長生きをしつつ、日々を暮らしていたが、主を求める人はいなかった時代。
聖書は黙々と果てしなく次の様な言葉を書き加える。
「誰々が・・何歳で子供を産み・・それから何年生きて・・死んだ。」
彼らの生きた年数を足して行くと、5千年を優に超す。
聖書はその間も克明に執拗に、人々の名前と生存年数を追いかけた。
だが、数千年に渡って、そういう記事の羅列だけである。
まるで、人間世界の虚しさを手に取るかの様である。
だが、そういった時間のはるか頭上で創造主は黎明期の到来に備えておられた。
突然であるが、彗星のごとくに登場したひとりの男がいた。
数千年というスパンの中で見れば、まるで流れ星の様な存在でしかなかったが・・
エノクという人の一生を手身近に記すも、それこそが彼の残した輝く足跡である。
『エノクの一生は365年であった。エノクは神と共に歩んだ。神が彼をとられたので、彼はいなくなった。』
彼以前にも彼以後でもエノクの様な人はいなかった。
キリストを知らない世界は悔い改めなど先ず稀である。
なぜクリスチャンに悔い改めが出来るかというと、内なるキリストの存在と御力に依るからという以外にない。
自分で自分を赦すことなど出来ない。
それは単なる自分勝手でしかない。
悔い改めとは、キリストの迫りと、導きと赦しである。
神に赦されてこそ、本当の赦しである。
仮にキリストを知らない世界だとしたら、単なる後悔でしかない。
時は常に過ぎゆくものだ。
過去は決して戻らない。
そして自分が蒔いた種は、必ず自分が刈り取ることになる(ガラテヤ6:7~9)。
この世は、そのことの恐ろしさを知らない。
犯した罪は如何ともしがたい。
だが、キリスト者であるならば、主によって赦されたことを嫌という程知っている。
この世が赦さずとも、キリストに赦された人は?・・クリスチャンすべてである。
エノクはずっと間違いを犯さなかったのではない。
365年間、ロボットではないのだから罪を犯さなかったのではない。
だが、彼は過ちの後に、必ず主の前に告白し、主を見上げつつ生きたのだと思う。
それが出来ること自体、本当に幸せなひとだった。
それは彼が神を知っていたからだ。
やがてこの地上が人間で満ち溢れる頃、この世がまったく未成熟な時に、創造主は黎明期の突端に立っておられた。
時代がいかに暗闇であろうと、罪がはびころうとも、キリストが消えない灯りである。
キリスト者だけが黎明期の存在を知らされているからだ。