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■「此処もエデン東」/創世記4:1~16

ジェームス・ディーン、主演映画の「エデンの東」。

取り立てて見たいと思わなかったが、心の隅っこにずっと有り続けたタイトルと俳優。

ひとつには彼が24歳の時、壮絶な事故で亡くなったことで、私の内面が否定的な処理をしていたのかも知れない。

今回、教会の礼拝メッセイジで「エデンの東」という箇所を扱うことになったので、とにかくこの映画を見たいと思った。

J・ディーンのイメージと存在感はこの映画一つで、爆発的に人々の心を掴んだ理由がわかった気がした。

没後64年経過しているが、今なお彼は飛び切りのスターであって、人々の記憶に生き続ける理由も理解できた。

やはり、不世出の俳優であり、銀幕のスターだった。

デビュー後4年程度しか活躍できなかったのに、永遠のスターとなった理由は余りにも悲劇的なこの世の去り方だったからか。

アダムとエバが神の掟を破り、食べてはいけない実(善悪の知識の実)を食べた故に、主は彼等をエデンの園から追放された。

神は彼等が再びエデンに戻れない様に、そして再び「いのちの木」から取って食べることのない様に、園の東に「ケルビム」と「輪を描いて回る炎の剣」を置かれた。

「ケルビム」とは天的象徴で人間の理性と動物の威力を備え持ち、超人的な存在であると考えられている。

主の手厳しい追い打ちではあったが、主は二人のために動物の皮で衣を作られ、着せられたとある。

何不自由なく暮らし、安らぎと憩いの中で生きられたアダムとエバは、今や自らが働いて食を得、寒さ暑さ、渇きと病からも自分達を守らねばならなかった。

これが「エデンの東」であった。

神が彼等に示された唯一の掟を破った報酬は、実に大きな代償となったが、二人だけでなく、創造主も悲しんだと思う。

決して踏み超えてはならない、踏んだら最後のボーダーラインがこの世に幾つもあることは、現代でも変わらないと思う。

クリスチャンの親は、是非とも子供たちに教えて欲しいが、学校が教えられないことはとても残念だ。

「エデンの東」、そこで最初に待っていたこと。

アダムとエバに子供が生まれた。

二人にとってこれ以上ない慰めの時となったであろう。

「私は主にあって、ひとりの男子を得た。」とエバは言っている。

彼女は母になることが、よほど嬉しかったに違いない。

やがて二人目の男の子が生まれた。

カインとアベル、二人の兄弟は父母の愛情と人のDNAを受け継いで、すくすくと成長した筈だった。

カインは土を耕し作物を得、アベルは羊を飼う者となり、両親は彼等を見る度に目を細めたのだろうか。

「エデンの東」によって、取り敢えず彼らは生活出来たのである。

人類にとって最も悲惨な事件が起こるまでは・・・

突然、「エデンの東」に真っ赤な血が流された。

カインとアベルが神に捧げものを持って登った日のことだった。

主の前に上った筈のカインは別人のような顔で帰ってきた。

主はアベルの捧げものに目を留められたが、カインの捧げものには目を留められなかった、と聖書は言う。

アベルは感謝と喜びの思いで主に捧げものを持ってきたと思われる。

そんなアベルを横目で見ながらも、謙虚な気持ちを持てないカインは、義務的に捧げものを置いたのか・・

主が見られたのは、捧げもの以上に「彼らの心」だったのではないだろうか。

カインは激しい嫉妬心をアベルに対して抱いた。

そのとき、カインの心を読まれた主は『なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。但し、そうでないなら罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたはそれを治めるべきである。』

仮に主の御声を内心で聞いたとしても、焼石に水どころか、火に油を注ぐばかりにカインの怒りは燃えた。

やがて待っていたかのようにカインはアベルに言った、「さあ、野に行こうではないか。」

そして弟アベルに襲いかかり、彼を殺してしまった。

このとき、アダムとエバが地に突っ伏して泣いたのか、それとも最初の罪を犯した自分たちを恨んだのか、聖書は黙して語らない。

今、初めて目にわが子の死は、兄息子による仕業だったとは。

「エデンの東」で生きてきたことは、カインとアベルの成長を楽しむ筈だったのに。

兄が弟を殺したとき、アベルの血は「エデンの東」という土地に吸い込まれた。

!「罪」とは悪行を犯したというより、「神から離れる」ということである。

主はカインに問われた。

『あなたの弟、アベルはどこにいるのか。』

カインが答えた、「知りません、わたしは弟の番人なのでしょうか。」

主は仰せられた、『あなたはいったいなんということをしたのか。聞け、あなたの弟の血が。その土地からわたしに叫んでいる。」

主の前においてさえ、うそぶくカインの性根と行動は、これから始まる人間界の未来永劫を予兆しているようだ。

人と人、夫と妻、父と息子、母と子、すべてにおける家族環境とは、人間にとって楽しい生き甲斐の場所である筈だったが、今や葛藤と行き違いの領域とも成り果てた。

主がカインを問い詰めるも、カインの言葉から後悔も反省も、弟への愛情の欠片も見えない。

これが人類最初の家族のつまずきになろうとは。

たった一つの実がもたらしたものではない。

善悪の知識の実を食べたこと自体、創造主との約束を地に捨てたことであり、神ではなく「神を離れた人間」が選んだ道だった。

カインは神の仕打ちを恐れて告げた。

「ああ、あなたは今日、私をこの地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらいびとになりました。それで、私に出会う者は誰でも私を殺すでしょう。」

そこで主はカインに出会う者がカインを殺すことのないように、カインに一つの「しるし」を下さった。

(このしるしとは、他の誰が見てもわからないものである。つまり、神がどんな場合でもカインを守ってくださる、ということかも知れない。)

結局、カインは悔い改めもせず、己が身と命だけを案ずる者だった。

それでも、神はカインを断絶することをされなかった。

つまり、「罪を悔い改めない人間であっても、神は憐れみを惜しまれない」ということだろうか。

おそらく殆どの人は、こういう結果に納得されないと思う。

当然ながら私も、である。

だが、「こういうお方であればこそ、私たちは罪から救われただけでなく、永遠のいのちさえ与えられたではないだろうか・・・。」

神のアガペーは人間にはわからない。

やはり、神は神であり、人はひとでしかない。

今日、私たちが赦されていること自体も「エデンの東」の延長に違いないが、イエスの血潮こそが私たちに赦しの確信を与える神の血判のように思える。

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