■伴侶の十字架/Ⅰコリント7:10~16
33歳でクリスチャンになったとき、キリスト教の何が解っていたかというと、完璧に何ひとつ知る由もなかった。
その朝までは・・・。
だが、あの朝、イエスは私の心に立って下さって、言葉を掛け、話しかけられたのだ。
1978年3月12日の朝までは、聖書の何かに対して、関心も興味も好奇心も皆無だった。
今、ふと思う事。
あの朝、創世記22章アブラハムの信仰を垣間見たように思ったとき、見えない方が私の前に立たれた。
今、思い出して「見たことの無い方」とか「イエス」とか言えても、あの数十分は単に自問自答している自分だけだと思った。
その日、私の人生は大きく岐路を曲がった。
夫婦でクリスチャンとして生き、クリスチャンホームを築きつつ子供達に教え、教会の子供達を教えた。
奉仕は結局すべてが私達の信仰の糧となった。
日曜日は毎週、教会に居た。
霊性の変化とか如何に関わらず、毎週同じ様な日曜日を送った。
休まず、さぼらず、安定的に出来たのは、やはり夫婦で教会生活を送ったからだと思うし、主の恵みだったからだ。
そして、それが一番静かな日々であった。
賜物という言葉が新約聖書に何回も出てくる。
それは神からの直接的贈り物であり、それを生かすべく私達を信頼された主のわざであり、力である。
だが神のものは、どこまでいっても神のものであることを忘れてはならない。
私の賜物、私の奉仕、私の結果であっても、賜物自体は神から預かったものである。
預かったのであるから、いつかは返すべきものでもある。
自分が労し願って得たものではない。
此処を勘違いしてはならない。
栄光も賛美も誉も、すべては神に帰すべき意識を怠ると、いつの間にか賜物は用いることさえ出来ない状況がやって来るからだ。
賜物を自分の所有物にしてしまうこと自体、既に自分に栄光を帰していることになる。
夫婦が同じ信仰と同じ奉仕が出来ることは、初めから終わりまで主に用いられ、主に帰することが出来る幸せである。
ルカ12:48節のことば
「与求任要(ヨキュウニンヨウ)」
つまり、『多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求される』
私が覚えるための造語である。
この聖句に対し忠実に生きようとすれば、主の祝福こそが誠に尽きないものであると知る。
私の主は生きて働き、死んでよみがえられた方。
果たして、あなたの神はどんなお方だろうか?
私はあなたの宗教を問うているのではない。
あなたとあなたの神に興味があるだけだ。
何よりも、その関係性のよしあしをご自分で考えられたことがあるだろうか?
夫婦がクリスチャンであるなら、互いにRIVAL(好敵手)であるのが良い。
切磋琢磨しながら人生を生きるのが良い。
似た者夫婦と言う意味では無い。
良きライバルである。
互いの奉仕をリスペクトすべきである。
キリストの祝福はクリスチャン夫婦だけに限らない。
仮に伴侶のどちらかがノンクリスチャンだから、恵みは半分だけという事はない。
信仰を持たない伴侶であっても、イエスは働いておられる。
クリスチャンの妻、若しくは夫を通して、祝福と葛藤、思慮と生き方の上に神が祝福を下さるからだ。
だから、クリスチャンである伴侶は、常にこのことを意識して生活することが望ましい。
もしそうでなければ、イエスは働かれないからだ。
キリストを知らない夫は、妻の信仰を通して神のアガペーに出会うことがあるだろう。
キリストを知る夫は、妻がイエスを知らずともイエスに知られている彼女を考えることが出来るなら主に尽きない感謝を捧げられるだろう。
そして、より深く妻を愛するだろう。
私はこの年になってから思うことがある。
キリストはクリスチャンホームだけでなく、信仰を持たない伴侶の居る夫婦にも大きな恵みと祝福を給わる神なのである。
流す涙の何倍もの恵みがあり、悩む心の何倍ものアガペーがある。
伴侶がクリスチャンで無くても、イエスはその家に住んでくださる。
あなたの夫が明日救われたら・・・
あなたの妻が今日、救われたら・・・
あなたはどんな態度をとりますか?・・・
伴侶の救いを信じる人は、その答えを既にイメージしているかも知れない。
第一コリント7:16
『なぜなら、妻よ。あなたが夫を救えるかが、どうしてわかりますか。
また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。』
夫たちよ、あなたの妻を救うのは、あなたではなくキリストである。
妻たちよ、あなたの夫を救うのは、あなたではなくキリストである。
今日か、明日か、いつか分からずとも、二人を訪問されるイエスを期待していて欲しい。