■我が主、我が神、私のイエス/ヨハネ6:34~40
『神からのパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。』
イエスの言葉にユダヤ人が聞いた。「主よ、いつもそのパンを私たちにお与えください。」
イエスは言われた、『わたしがいのちのパンです。』
ではクリスチャンであるあなたはいつ、イエスがいのちのパンであることを知ったのでしょう?と、問いたい思いである。
私など当初、苔が生えたくらいに鈍感だった。
第一クリスチャンだから当然理解出来るわけでもないのである。
そういう問いかけをする牧師もいなかった。
実際、生きている今の次元で「いのちのパンを理解する」ことは非常に大切なことである。
イエスを知るとはそういうことだと思う。
彼が『私は道であり、真理であり、いのちである。』と言われたら、「ああ、そうですか、そうなのですね。」では、何とも締まらない。
自分で、イエスという道を歩いて実感するとか、わたしが真理であると言われる意味を知るとか、いのちとは命を超えたイノチであるとか、自分と人生で体験して、掘り直してみることが大切だと思う。
クリスチャンでない人には、とにかくイエスに出会って欲しい。
出会った次には知って欲しい。
そしてクリスチャンには、彼が自ら真理といわれた理由を知って欲しい。
人生でイエスのことを「私のイエス」と感じた、そう思った、ことが果たしてあるだろうか?
私のイエスという感覚に慣れてくると、今までとは違う親しみとか畏敬の念が付き纏うものだ。
彼と生きられることが何というか、楽しいのである。
嬉しいのである。
この喜びは自前のものでなく、内から湧き起こって来るものである。
彼は私たちに対してご自分を「あなたは、わたしの友である」とさえ言って下さった。
多くのクリスチャンたちがイエスのことを「わたしのイエス」と告白出来たら、何と素晴らしいことだろう。
イエスが十字架の上で叫んだ言葉は忘れられない。
「我が神、我が神、どうしてわたしを見捨てられたのですか。」
あの時点、イエスは神を呪っていない。
人類すべての罪は、神の御子を十字架に架ける程に重かった。
その極限の苦しみの中でさえ、イエスは天の父を「我が神」「我が神」と叫ばれた。
罪無き「イエスが背負った人類の罪」は、「わたしは今や、二度とあなたを神と呼ばない。」とさえ、言わせることなど出来なかった。
自分と人生をイエスにゆだねる。
これ以上の献身は無いであろう。
ひとつ聞きたい。
知る=信頼は同じ言葉では無い。
もし、イエスを信じています、と言われても、その深さも質も位置も分からない。
そこまで言わせない、問わないのも日本流なのであろうか。
だが主イエスを信頼しています、と言えば殆ど理解出来るものだ。
日本人クリスチャンの言葉で「私は主イエスを信頼していますよ。」と聞きたいものである。
文字通り、信じて頼る、ここにこそ本当の信頼があると思う。
一句読んで見た。
「えぐられた わがたましいに イエスあり」
信仰をいただいて何十年も経ってからだが、神は私の魂を鋭い刃物の切っ先で抉られた。
その抉った場所にイエスが入って座って下さった、と理解した。
抉られた頃、実に痛くて苦しかった。
食事さえ咽喉を通らない日が続いた。
抉られた場所は、私の本性に間近い所だった。
だが、その傷口にイエスが入られたと知った時、私の中には平安と勝利感が満ち満ちた。
主は生きておられる、と。
ヨブ記の言葉が気に入っている。
長いこと、そう思っていた。
最近、読み直してみたら、更なる恵みに与った。
ヨブ記13:15節
『見よ、神が私を殺しても、私は神を待ち望み』と前半は言う。
凄いなぁ、ヨブは・・・と幾年も感じ入ったものだった。
だが後半では、『尚も、私の道を神の前に主張しよう。』とある。
この言葉、私達すべてに当てはまるかも知れないと思う。
「私の道を神に主張する。」一見、ものすごい言葉だが、毎日の中で自分がしている事かも知れない。
確かにヨブは正しかった。
私達よりもはるかに神を恐れる生き方をしていた。
だが、ある意味ヨブが彼流であったように、私達も自己流ではないだろうか。
結局、すべての人間がやはり自己流ではないだろうか。
神はわからない方・・・
だがイエスによって、果てしなく近くなってくださった。
イエスとの距離感は実に1ミリ程度である。
つまり皮膚感覚である。
あなたと「あなたのイエス」との距離間を考えて欲しい。
それがあなたの彼に対する信頼の度合いでもあるからだ。