■モーセがあなたは我が目と言った男/民数記10:29~36
イスラエルの民、子供から大人まで数十万人を引き連れ、エジプトから約束の地カナンへと荒野を旅するモーセとイスラエルにとって、すべての面で危険要素をはらんだ旅だったが、特に危険と思えることは自分達の居る位置を見誤ることと、水場を見失うことだった。
出エジプトは荒野の中で40年という膨大な時間の旅だった。
だが、何よりも彼らにまとわりついた死の危険は迷いでも水問題でもなかった。
それが何だかお分かりだろうか?
それは「彼らの神に対する不従順」だけだったのである。
その証拠には水が無くて死んだ記事はない。
食料が無くて死んだ記事もない。
数限りなく多くの人々が死んだ原因は、彼らの「神への反逆心」だった。
実にイスラエル民族が生きる道は、ひたすら主なる神YHWEに従うことだった。
その一点だけだったのである。
私が昔、イスラエルツアーを体験する以前は、イスラエル民族のYHWE(ヤハウェ)に対するあまりに不従順な生き様であった。
聖書を読んで行くと、何かにつけ、モーセに、神に、逆らう民を見て、彼らは何と不従順、不信仰、我儘な民であろうかと呆れていた。
しかし、いざ自分がイスラエルの荒野を見て、自分の足で一歩その地を踏んだ瞬間、「これは日本人には、とても無理だ」と悟ったものである。
聖書を読んでイメージすることと、直接的に現況を目の当たりにすることは天と地の差がある。
砂漠へ足を踏み入れるとは、そこから先は自分の死を背負うことである。
この日本には水が無い場所などない。
どこにでも種を蒔けば芽を出す。
蒔かずとも草は芽を吹く。
だが、一年の半分以上の乾季には草一本さえ生えず、僅かに砂漠特有の渇いて痩せた草が寂しく生えている程度である。
モーセとイスラエル民族の旅には一人の有能な男が道連れだった。
「ミデヤン人のホバブ」という男は、砂漠が生まれ故郷の様なひとだった。
吹く風によって刻一刻に変わる砂漠の景色は、今居る自分の位置さえ簡単に見失わせた。
自分の居場所を見失うとは、既に死地のへの旅立ちである。
砂漠で育った民は視覚よりも、その地に対する嗅覚のような感性を持っていた。
何処へ置かれても、迷いようが無いとさえ言える感性の持ち主であった。
次に砂漠には僅かであるが、水場がある。
だが、その場所を一度見過ごしたら命は無い。
モーセがミデヤン人ホバブに半端なく嘆願している箇所がある。
『私達は、主があなたに方に与えると言われた場所へ出発するところです。私達と一緒に行きましょう。私達はあなたを幸せにします。主がイスラエルに幸せを約束しておられるからです。』この言葉はモーセの深刻な心と状況を現している。
ホバブは答えた。「私は行きません。私の生まれた故郷に帰ります。」
モーセは必死になってホバブに訴える、『どうか私達を見捨てないでください。あなたは荒野における私達にとっての「目」なのです。』
そう、ホバブがモーセとイスラエルにとって目であった。
ホバブ無しでは、此処からの旅は死の旅となるに違いなかった。
モーセの必死さが理解出来るというものだ。
クリスチャンとして生きる現代の私たち、どれくらいの人々が自分の居場所を把握認識しているだろう?
神の前に於ける居場所である。
砂漠などないから、ではない。
この世は神の恵みが渇いた地なのである。
それは人間がキリストを求めないから砂漠となっているのである。
では、仮に居場所を認識していないとしても、なぜ安穏としていられるのだろう?
いかがだろう。
その答えは「イエスが私とおられるから」以外にない。
イエスが私たちの「目」であり、「いのちの水」その方であり、行くべき場所へと導くガイドであるからだ。
人間は自己中心であるから、どうしても自分が行きたい方向へ行く。
それがどんな結末をもたらすか、分からないのに、だ。
主イエスは間違いのない道を知っておられるだけでなく、「わたしは道であり、真理である。といわれるように彼自身が道なのだ(ヨハネ14:6)。
YHWEが人類に与えた賜うたイエスこそ、私たちを罪から救った恩人であり、この世の旅路のガイドなのである。
イエスが伴って下さる人生であればこそ、祝福と平安の旅路となる。
危険が迫り、闇に覆われても、彼はいつも光であり、希望であり、勇気である。
私たちは毎週日曜日に教会の礼拝に参加し、聖書の学びを重ねることで、知らず知らずのうちに生活が整えられる。
身体と心がこの世の中の僅かな一角にある教会においてさえ養われ、人々は守られる群れなのである。
イエスに従うことは、神YHWEに従うことでもある。
あなたにとって最も身近な所へ来て下さった神こそが、あなたのイエスである。
あなたのイエスであり、「あなたがイエスのもの」となったのである。
主イエスと私が一つになってこそ、私は主のもの、神のものであると言える。
思想でもない、ソーシャルでもない、理想でもない、現実においてイエスと一つになる日々こそがイエスと生きるものである。
信仰が現実の中で花開く時、宗教とは呼べないものとなる。