■栄光からの脱出/ピリピ3:4~11
1960年、「栄光への脱出」という映画が作られたが、そのタイトルは物凄くインパクトがあり、多くの日本人は覚えておられるだろう。
私など映画は知らなくてもタイトルは知っている。
(と、いうことで早速DVDを注文した次第です。)
今週の礼拝メッセイジ・タイトルは「栄光からの脱出」である。
映画のタイトルとは意味内容が真逆となったわけである。。
使徒パウロは文字通り、この世の名誉、宝、地位、将来を、かなぐり捨て、この世の栄光から脱出すべくキリストの奴隷になった。
彼に於いては、しもべ以下の奴隷が良いと判断したのであろうが、すごい人だ!
何がパウロをそこまで指し向けたのか。
それは彼が別の偉大な宝を手にしたからである。
パウロが手にした宝は、この世の価値観では到底収まらないものである。
幾ら金を積んでも手に入らない。
幾ら努力しても手にすることなど出来ない。
実際、それを手にした人だけが・・・否、今日まで多くのクリスチャンが去来したが、パウロには届かないのだ。
当然、各言う私とて、とてもとても遠いものである。
慇懃という言葉がある、意味は礼儀正しく丁寧なという意味である。
だが、慇懃無礼となると、これまた真逆の意味になる。
つまり、「うわべは丁寧なようで、実は尊大である」。
仮に私が誰かに褒められたとする。
そして私は言うだろう、「いいえ、私など小さく貧しい者でしかありませんね。」
或る意味、自然であるように聞こえる。
だが、この言葉はこの世の価値観が中心となっている。
つまり、慇懃無礼になるのだ。
謙遜のようで、傲慢さを隠している。
仮に正直に言うとすれば、「私など何も満足に出来ない者ですが、私の内におられる方によって用いられ、生かされておる者です。それが私の宝のイエスさまです。」となる。
パウロは言った。
『私が人間的なものに頼るとするならば・・・。私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの別れの者です。生粋のヘブル人で、律法についてはパリサイびと、その熱心はキリストにある者達を迫害した程で、律法の義については非難されるところがない者です。
しかし!私にとって徳であったこれらのものは、キリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、キリスト・イエスを知っていることの素晴らしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。
私はキリストの為にそれらを捨て、塵芥(ちりあくた)と思っています。』
パウロは生まれついて以降、人生で培ったものは誰もが羨望の目で見るようなものだった。
それらは金で買えないものばかりだった。
その出生、生い立ち、環境と未来は、決して他者が手にすることなど出来ないものだった。
しかし、パウロがキリストを知った今、彼にとってそれら価値あるだろうものは、ゴミのような物であると言ったのだ。
ここで私達が見落としてならない言葉がある。
「キリストを知った故に」、である。
きっと世の天秤量りで測ったら、その宝に優るものなど無いだろう。
だが、「キリストを知ったこと」に比べたら、塵芥(ちりあくた)だと言っている。
私達の目が覚めない原因が浮き上がってくる言葉だ。
その原因こそ「キリストを知らない故に」のものなのだから。
毎週毎週、朝から教会に行き、聖書を開き、礼拝に参加している。
決して非難出来ないことだらけだ、実に立派である。
だが、それと共に、否それら以上に大切なことは、「キリストを知った!」ことである。
「頭で知っても、胸と心で知るには至らず」なのだろうか。
「頭で知って、口で吐き出す」確かに・・・口ではいつも罪を犯している。
頭で信仰を考えることなど出来ない。
頭は知識の宝庫。
生まれて以来、数えきれないデータと画像、動画が詰まっている。
量は数字で表せるなら○○ギガどころではない。
創造主が造られたマシンは、それ程の凄いスーパーコンピューターであっても、信仰においては脆弱軟弱無力である。
伝道者は言う、7:29節『神は人を正しいものに造られたが、人は多くの理屈を捜し求めた。』
人間の頭は殆ど別のことで満杯なのだ。
イエスを知ろう、頭だけでなく全身で!
確かに人間はイエスという名が嫌いではない。
だが、イエスに渡したくないものがあるだろう。
そうとしか思えないから。
神はそのすべてを人間に下さったが、人間が神に渡せないものがあるのだろうか。
それはあなたが考えて下さい。
そのことではパウロも大いに悩んだ筈だから・・・
だが、彼は勝利した。