■あなたはわたしを愛するか?/ヨハネ21:12~22
ガリラヤ湖の淵をゆっくり歩く弟子達、そして復活のイエス、どうイメージしても考えてもそれを画にするのは難しい。
よみがえりのイエスを画家はどう描く?
朝食後立ちあがり、歩き始めたイエスが思い出したかの様にシモンの顔を見て言われた。
「ヨハネの子、シモン。あなたはわたしをアガペーするか?」
ここではLOVEとか愛という言葉は相応しくない。
(無条件で無限に、わたしを愛するか、という意味合い。)
シモンが答える、「主よ、私は私の可能な範囲で、あなたを愛します。」
それが彼の精一杯の返事だった。
(フィレオ―という言葉、自分の可能な範囲で、つまり条件付きなのである。)
イエスが役人に捕えられる前、シモンはイエスに向かって言いきった。
「主よ、私は終生あなたと一緒にいます。仮に死ぬ時もあなたと一緒です。」
イエスはシモンの顔を見やりながら言われたものだ。
「シモン、あなたは三度、わたしを知らないと言う。」
「いいえ、とんでもないです主よ、他の者がどうあっても、私はあなたと死ぬまで一緒です。」
その言葉から6時間後、シモンはイエスを三度「俺は彼など知らない」と繰り返した。
今、シモンはイエスから問われている。
「シモンよ、どんなことが起ころうと、何が起ころうと、わたしを愛するか?」
イエスは二度、同じ様にシモンに問われた。
シモンは苦しかった。
(先生は私をご存じなのに・・)
三度目、イエスは問われた「シモンよ、あなたの出来得る範囲で、わたしを愛するか?」
シモンは同じように答えた後、後ろから歩いて来るヨハネを見やりながら言った。
「主よ、この人はどうですか?」
「シモン、あなたはわたしに従いなさい。」
最後に言われたこの言葉こそ、すべてのキリスト者が聞くべき言葉である。
「他の者がどうであれ、あなたはわたしに従いなさい。」である。
すべてのクリスチャンが救われたのであれば、すべてはイエスの(愛)アガペーが土台にある。
つまり教会とはアガペー充満、満載の場所である。
「この教会に愛(アガペー)が足りない」とか、「もっと愛(アガペー)を前面に」とか言うのは実におかしなことである。
それぞれがアガペーの下で救われ、アガペーを味わいながら成長して来たのだから。
キリスト教会とは「アガペーが基礎」、床も柱も天井も住民もすべてアガペーそのものである。
アガペーが有るか無いかという議論などあろう筈がないのである。
初めにアガペーありき、つまりアガペーは無条件、無限、無償、無私である。
イエスはそういう愛で私達を包んで下さったのだ。
どうして?そこまでして?という問いもおかしい。
それは、初めからアガペーを受け入れていなかったからだろう。
さて、ここからは人間関係において考えるアガペー論。
赦されたということの本当の意味が分からなければ、アガペーは永遠に分からない。
赦すことの痛みが分からなければ、本当の赦し(アガペー)も分からない。
こういうレベルでは、クリスチャンを100年やったとしても、アガペーを知りきることは出来ないだろう。
私達はいつも自分の土俵で自分と相撲をとっている。
だが、もし神の土俵で神と相撲をとったとしたらどうだろう。
アガペーもフィレオ―も分かるかも知れない。
A・B・シンプソンという先生が言っておられた。
神はアブラハムを彼の極限にまで、連れて行く必要があった。
アブラハムが自分と自分の肉体の力では、何一つ為し得ないことを知るべきだったからだ。
文字通り、アブラハムが自分は死んだも同然、というところまで連れて行かれた。
そして神は、その時点で彼にイサクを与えるという約束を果たされた。
アブラハムが『神、成し給う故』に与えられたイサクを知る必要があったのだ。
私達には自身の余裕、余力が有り過ぎるのだと思う。
仮にそこで神のみわざを見たにせよ、私達には悟る目も知恵もない。
畏れるべきは主の知恵、摂理、御力である。
私とて別に何ら秀でたものでは無い。
やかましいドラかも知れない。
うるさくメッセイジを喋るだけなら、家鴨(あひる)にだって出来る。
神学校など行く必要もない。
何故、福音を語るのか?
それはイエスを語らねばならないからだ。
主なる神が、無限、無条件のアガペー愛を私達に示されたこと自体、それが目に見える対象としてのイエスであったのだ。
イエスを語るからメッセイジなのだ。
真に人間が自分から目を離す時、人は神を見上げるであろう。
その時こそ、人はキリストを信頼するだろう。