■GLORY TO HIS NAME/使徒9:1~20
もうふた昔くらい前の出来事。
私の近所に住んでおられたおじいさんは、大分前に上北沢の駅に近い場所にいたとき、当時有名なキリスト教の牧師と顔なじみになったらしい。
或る日、その方が半紙に筆でもって、さらさらと走らせた絵文字。
それは額に入れられて居間に飾られた。
それを見た私は思わず、「良かったら、この画を譲ってくれませんか。」と言った。
書いた人が賀川豊彦先生だった。
「幾らならいいですか?」と聞いたら、おじいちゃん曰く「いっぽん!」。
日本酒一本かと思ったけど、おじいさんは酒もタバコもやらない人。
「一万円?もしかして十万?」(まさか・・冗談でしょう、と腹では思った。)
でも返事はないので諦めた。
画はイエスが子供を招いている景色、「幼子をわたしのところに連れて来なさい。」
GLORY to HIS NAME・・・栄光こそ彼の御名とか、栄光は彼のものとか、色々考えられる。
因みに私は社会派でも理論派でもない。
キリストと信仰のこと以外、語りたくとも語れないのである。
これほど似た様な内容の説教を毎週聞いてくれる教会はそうそう無いと私は思っている。
GLORY to HIS NAMEこれは有名な讃美歌の歌詞にある繰り返すフレーズ部分である。
「ただ信ぜよ」という日本語を訳した歌詞の原語はGLORY to HIS NAMEである。
『♪ただ信ぜよ~』もいいけどGLORY to HIS NAMEはもっと良いと思った。
この言葉は繰り返すうち、主からの力と希望と勇気が内から湧いてくるから不思議だ。
私など「栄光は主に、私にも少し栄光を・・」なんて、おぞましい思いが無いわけでは無い。
サウロが意気と意地でキリスト信者を捕らえようとダマスコを目指していた時。
にわかに天から強烈な光がサウロを取り巻き、大きな声がした。
「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」
サウロはその光で眼は開いていても視力を失い、その場に倒れ込んだ。
サウロは言った、「主よ・・、あなたはどなたですか?」
天の声が言った「わたしはあなたが迫害するイエスである。」
キリストがおられるところ、すべてアガペーの対象となる。
サウロとて、同様だった。
クリスチャンを捕えて牢にぶち込み、挙句の果ては惨殺する積りのサウロさえも「アガペー」の対象なのだ。
あなたも私も、そして嫌いな誰かも、苦手なあいつもアガペーの対象である。
私の内にはイエスが住んでおられる。
あなたの内にもイエスが住んでおられる、としたら。
私の敵も、貴方の敵も、嫌で仕方ない誰かであっても、すべてはアガペーの対象なのだ。
仮に、イエスがあなたの内に住んでおられるならば、である。
だが、住んでおられれば、すべてOK!ではない。
住んでおられる方が、あなたの人生の舵を握っておられなければ、何ら変わらないことを知らないクリスチャンが圧倒的に多い。
そして各言う私も同じ輩ではある。
イエスにとっては敵さえもアガペーの対象である。
つまりこの世で生きているすべての人は神からすれば、皆アガペーの対象なのである。
イエスは憎むことをしないのではなく、憎むという意識も感情も持っておられないのだ。
主は、彼らがしていることは愛せずとも、人間の魂そのものはすべてアガペーの対象である。
だから、「わたしにとってあなたは高価で尊い。」となるのだ。
間違えて困ることは、神は私を愛するから、私のしていることも愛しておられるという身勝手この上ない考え方である。
それは明らかな過ちである。
神が愛されたのは世の魂であって、魂がしていることではない。
罪満載の、こんな私が今日も生きていられる。
それはどうして?
GLORY to HIS NAMEの御方が共におられるからだ。
彼の栄光と存在が私達を救ったのであって、私の資質とか言動、生き方の何かではない。
イエスがいなければ生きる術(すべ)無しの私である。
イエスがおられるから、私もあなたも生きていられる。
サウロという、当時のキリスト教にとって最悪の器だった者を、イエスは福音の使者として選ばれた。
しかもイエスがされたことは、ご自身をサウロに現されたことだった。
ご自分を彼に現し、計画を教えたら彼は変えられた。
人はイエスに出会うと正気になる。
正気とは本来あるべき姿、普通に生きる姿、つまり精神が正常であり、気が確かなことである。
イエスの十字架上での叫びが聞こえて来そうだ。
「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているかわからないのだから。」
そう、私も同じ。
自分は正しい、間違っていないと思うのは、正気の基準が自分だと勘違いしている人間独自の自己中心によるものだ。
クリスチャン40年、と言っても場合によって今の時点でも左程変わってないかも知れない。
それは外から見えるところは良くなったとしても、本性が問題なのだ。
創造主が最後に手を加えるのが本性なのかも知れない。
確かに昔よりは、多少増しに成ったかも知れないとしても、である。
だが、それをしたのはイエスであって、私では無い。
本当は、私自身もっともっと増しな人間に成れる可能性を知っている。
それは今よりも、イエスに信頼しイエスに委ねる生き方を望むこと。
自分でするのではない。
イエスにして戴くのだ。
イエスがして下さるのを願うのみ、この決心だけ。
だから、人生の舵を主に委ねられる位の太っ腹のクリスチャンになろう。
委ねられるのは生きている内だけなのだから。