■あなたには出来る!/ダニエル書4:4~19
人間が生きる所、国のリーダーにせよ、スターと言われた人にせよ、企業にせよ、実権と栄光を握る時ほど不安は増すものである。
「私は明日も来月も来年も、この栄誉と栄光と力を持ち続けられるだろうか?」
そういう場所に立ったことの無い私には、実際の気持ちは分からない。
但し、仮に特別の立場に着いた人でなくても、恵まれた場所を体験すると、絶対失いたくないと思うのが人の常だと考える。
例えば20世紀、アメリカにおける往年の著名な歌手や映画スター達のドキュメントを見て、いつもそれを実感する。
彼等は失うかも知れない人気の凋落と生活への不安、人生の奈落を想像して耐えきれずにドラックやアルコール、そして快楽に走り、家庭を壊して行った。
それは世界中、どの国においても、人間ならば同様であるだろう。
権力と名誉、名声と人気は人間にとって、勝ち得ない不安を抱かせるのである。
つくづく思うのは、そういう事とは無関係の身であるということ、つまり平凡な人生にある人の幸せ感と平安である。
増してや、イエスの言葉が重なれば、並であることが本当に感謝である。
「わたしはあなた方に平安を残します。わたしはあなた方にわたしの平安を与えます。わたしがあなた方に与えるのは、世が与えるのとは違います。」ヨハネ14章27節
そんな平安を感じられるのは並であるからこそではないか。
紀元前600年に立ちあがったバビロン帝国、その最高権力者は「ネブカデネザル王」。
それ以前のメソポタミヤの君主「アッシリヤ帝国」は、日本の徳川時代をはるかに超えた700年に及ぶ勢力を維持したが、やはり永遠では無かった。
栄枯盛衰、人の世も権力の座もすべては移り変わる。
だが、人間はそれを読むことが出来ない。
人は永遠ではない、ということが時代の移り変わりもたらす。
ネブカデネザルが自らの栄誉と権力の王座に酔っていた頃と思える。
彼が諸国、諸国語に書き送った言葉。
「あなた方に平安があるように。いと高き神が私に行われたしるしと奇跡とを知らせることは、私の喜びとするところである。」
この書き出しに続く言葉を全土に知らしめるべく彼は言った。
「私を王座に据えられた、いと高き神こそ、私の喜びであり力である」と。
と称えた直後、彼は不思議な夢を見た。
だが、その夢こそが王を脅かし恐れさせた。
考えれば考える程、彼の心に不安がひたひたと押し寄せた。
王は早速、宮廷に仕える占いびと、学者、呪文師達に夢の解きあかしを求めたが、誰一人として王に知らせることは出来なかった。
聖書は言う、「知らせることが出来なかった」。
おそらく彼らは、王の見た夢を解いたと考えられる。
だが、彼らは夢の意味を王に明かせなかった。
もし、その解き明かしがバビロン帝国のネブカデネザル王の逆鱗に触れたら、即刻首が飛ぶのを恐れたからであろう。
王が最後に思いついた男。
ユダヤ人捕虜ではあるが、並外れた見識と知恵、夢を解き明かすことが出来るダニエルだった。
バビロンに於いてはダニエルというユダヤ名ではなく、ベルテシャツァルというカルデヤ人名で呼ばれていた。
王はベルテシャツァルに自分が見た夢を伝えた。
「ベルテシャツァルよ、恐れるな。あなたは夢の解き明かしを述べよ。私の国の知者達は誰ひとり私に知らせることが出来なかった。だが、あなたには出来る。
あなたには、聖なる神の霊があるからだ。」
そのとき、ベルテシャツァルは夢の意味に驚きすくみ、怯えた、と聖書は言う。
だが、ネブカデネザルの言葉を21世紀の我々クリスチャンこそ覚えたいと思う。
「あなたには、聖なる神の霊があるからだ。」
これを聞いて単調に聞き流すとしたら・・・
そう、クリスチャンには「聖なる神の霊が与えられた」のである。
2600年前、異邦人であるバビロンの王が語った言葉を、私達はどれほど重く耳にしているだろうか?
キリスト者は神に選ばれたのである。
キリスト者がイエスを選んだのではない。
選ばれたという確信があるとしたら、選んで下さったキリストから目を離してはならない。
選んだ側には目的が有り、選ばれた側には使命がある。
キリスト者こそ、「あなたには、聖なる神の霊がある者であり、あなたには出来る」と聞く者である。
この世にありとあらゆる宗教家がいるにせよ、キリスト者こそはっきりと聞くべき言葉である。
キリスト者が聞かずして、どこの誰がネブカデネザルの言葉を聞けるだろう。
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」ヘブル12:2
私達は試練のため膝をつくことがあっても、やがて立ちあがる。
迷っても挫折しない。
失敗しても前を向く。
それは私達が素晴らしいからではない。
私達の内なるイエス・キリストの内住と臨在があるからだ。
『あなたには出来る。あなたには聖なる神の霊があるからだ。』アーメン