■信仰の種/マルコ4:30~32
この世で一番小さい種と言われる「からし種」、実に小さいのである。
まるでノミの糞の様。
だが、この種になぞらえてイエスさまは信仰を語られた。
マルコ4:30~32
「からし種は地に蒔かれる種で最も小さい。だが、それが蒔かれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れる程になります。」
信仰とは人の心にあるもので、大きいか小さいかは一見しても判断できない。
だが、それは神の国を信じて期待することの証拠の様なものでもある。
大きい信仰の筈だったが、実際はノミの糞以下だったりすることだってある。
無い、と思っていた信仰が、時として目を見張る程の大きな山にさえ思える。
聖書の神が為さることを人は想像も出来ない。
だから、聖書の神はユニークで、ダイナミックでユーモアのある方なのだ。
ユーモアの分からない人には、イエスを理解出来ないかも知れない。
神学や哲学でイエスを知ることは出来ないだろう。
イエスに関する神学は書けても、ユーモアたっぷりのイエスには出会えない。
信仰の種は「有ること」が肝心であって、大きい、小さいは別問題である。
「樋口信平先生」が書かれた文にこういう箇所があった。
(私一人で読むだけでは大変勿体無いので、皆さんにもお分かちしたい。)
『多くの人々に宗教はあるが、信仰は無く、信条はあるが信仰は無い。
彼等は神に対する本物の、行動的な信頼は無いのである。
信仰は私達が信仰を行動に移すことに始まる。
小さい信仰であっても本物だったら大きいことをする。
大切なことは、私達が沢山のことを信じるか否かではなく、信仰の対象をしっかり掴むということだ。
辛し種は生きているから成長する。
生ける信仰は小さくとも伸びる可能性がある。』
そう、信仰は生命によって成り立っている。
生ける神は生きている人間に信仰を与えられた。
だから、キリスト者は常に生きた信仰が持てるはずである。
霊的に死んでしまっては元も子もない。
そして、信仰は人間に対し行動を促す。
生きる者は必ず動くからだ。
確かに、この世が作ったものは時間と共に必ず劣化する。
新車でも家電でも間違いなく、年月と共に故障したり壊れたりする。
決して新車には戻らない。
お金だって同じである。
使えば減る。
使わないとしても相続で減る。
この世のものは人間が開発し、造ったとしても、それらは必ず古びてやがては捨てられる。
だが、聖書の神が造られたものは、時間と共に新しく、より新しくなるのである。
信仰、その初めは小さく弱かったかも知れないが、年月の中で切磋琢磨され、更に大きく光り輝く様になる。
確かに人間の身体は年月と共に弱り、やがて朽ち果てる。
だが、その人の内側に住まわれた神の御霊の力は、より新しく、より逞しくなる。
パウロはこう言った。
「ですから、私達は勇気を失いません。たとい私達の外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」第二コリント4:16
信仰は使えば使う程に大きく強くなるが、使わないでいると弱くなり、やがて無くなることだってある。
読者はこのことをよく覚えていてほしい。
聖書の神が下さったものは、人間が造ったものと正反対の性質を持つ。
永遠の主と限界ある人間の差である。
家庭伝道という言葉があるが、家庭人として信仰を問われる頭の痛い問題。
であるが、どっこい、忘れちゃならないイエスさまがおられるではないか。
伴侶が救われない。娘、息子が救われない。父や母が救われない。
多くのクリスチャンの大きな悩みの一つであるが、からし種の信仰があれば、やがてイエスさまの御手が祈る相手に触れられると信じる。
だから、ひたすらイエスを信じよう。ただ只管(ひたすら)信じよう。
ひたすら!
【神学校の教授が書かれた実話】
或る日の授業において教授の言葉。
『私達は自分の家族、親戚、友人などとの関係が悪いとすれば、それは同時に自分と神との関係が壊れている場合を念頭に置くべきであろう。
私達は遠い関係の人に伝道が出来ても、近い関係にある人に福音を伝えようとしないのは、彼等との関係がうまく行ってない罪責感にも要因があるからだと思う。
つまり、私達が主を知らないからでなく、私達の生活において本当の意味で「主を主として認めていない」ことにある。』
その時、一人の学生が手を挙げて言った。
「先生、私の父は26年前に母と僕を捨てて家を出て行きました。
27歳の私は父の顔も声も知らないし、知りたいとも思いません。」
教授が言った。『もし、私が神の無限の恵みに基づいて、他の人を赦さないなら、神は私を赦してくれますか?
確かにあなたのお父さんは、赦される資格など無い人かも知れないけど、私もあなたも人間は基本的にお父さんも同じなのです。』
学生が言った。「私の父が今、どこにいるのか、また今も生きているの死んでしまったのかも分かりません。」
教授が答えた。
『それは別として、あなた自身の生き方について考えてみませんか。そのことを神にゆだね、あなたが何をすべきかを主に示していただきましょう。主の助けによってお父さんを見つけられたら、何をすべきか、その時に分かると思います。』
教授は次のように書いている。
何週間か後、彼は私のところに急いでやって来て言った。
「先生、父から連絡がありました。先ごろ家族の一人が亡くなったことをきっかけに、何の前触れもなく、僕に電話をくれたのです。
そして、自分の息子が神学校で学んでいることを知り、父自身もクリスチャンになったことを知らせたかったらしいのです。
それで今度の神学校の卒業式に出て、僕に赦しを求めたいから出席してもよいか、とのことでした。」
『卒業式の日、後ろから私の腕を引っ張る学生があった。
振り向くと、あの学生だった。
彼の隣に眼鏡を掛けた初老の男性が穏やか立っていた。
「先生、私の父です!」学生は涙ながらに私に父を紹介してくれた。』