■集中/ヨハネ8:19~34
今日まで生きて来て、今回ほど不思議な体験はなかった。
確かに与えられた聖書箇所からのメッセイジを想い、タイトルを思いを巡らしていた。
教会に分かち合いたいことは沢山あった。
そして、いきなり「メッセイジ・タイトル」が降りてきた。
『集中』の二文字、これは主からのものだった。
取り組んでいた聖書箇所には、何となくそぐわないと感じたが『集中』と決めた。
そして先週の或る日、いきなり「五 七 五」の句が降って来て驚いた。
一句「ひねろう」とも思わなかったのに・・・何故だ?
「語られて 知るは己の 不信仰」自分にぴったりの5 7 5だった。
聖書とは読み取る時があり、聴くべき時があり、探し求める時がある。
すべて、どういう時でも共通して大切なことがある。
それは語られる方を期待して待つ、静まって待つ、心を低くして待つということだ。
決して、自分が先に立たない様に。
自分が走り出さないように。
『みことば、打ち開くれば 光を放ち 愚かなる者、悟からしむ。』(詩篇119:130)
主がみことばを開いて下さるのであって、私が勝手に読み取るのではなない。
「あなた方はわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死にます。」イエスがユダヤ人に語られた。
私達とて、この身体のどこでイエスを考えても、イエスを捉えきれない。
頭でイエスを考えてもイエスは分からない。
頭で考えるから分からない。
信仰は心と腹だ、つまりはらわたである。
決心は頭でするのではない。
心である。
イエスを受け入れたら、「信じる」という意味が分かる。
見ようとしても見えない方、見たことも無い方を、人はどうしたら信じられるのか?
それはイエスという存在を認める、神として彼を認めること以外にない。
「あなた方はこの世の者、わたしは上からの者」とイエスはいわれた。
人間は下(地)からのものであり、イエスは天(神)からの方。
人間はこの世の生き方、考え方しか出来ない。
上から来た方の思いなど理解出来ないのは当然である。
だから、イエスを知るのが良い。
そうすればイエスの考え方が理解出来るからだ。
不思議ではあるがイエスを自分と自分の人生にお迎えしたときから、人生というか生き方そのものが修正される。
自分中心の生き方が見直され始める。
これがクリスチャンとなった大きなメリットである。
当初は中々掴み難かったが、慣れてきたら放したくなくなる。
クリスチャン信仰とはそういうものかも知れない。
「その価値」の深さが分からなかっただけのことであった。
いろいろな考え方が「上なる方の御意志」に基づくようになるとしめたもの。
ものの価値観、世の道理、勇気、ということさえ修正の必要を知った。
常に自分が主人とする生き方が変われば、人間は本当に変わる。
それが「キリストを知る」ということだった。
そしてキリストに「集中」出来るように成れれば、最高だと思う。
だが、基本的に神がすべて分かったわけではない。
見えない方をほんの少しだけ知ることが出来た、という程度であるが、それで良い。
旧約聖書に登場するヨブという人は実に正しかった。
凡そ、この世の中でヨブより正しい人はいない。
この世の人は誰ひとりとして、ヨブの足元に及ばない。
しかし、イエスを信じて救われた人の足元には、ヨブとて及ばないのである。
この意味がお分かりだろうか?
クリスチャンはキリストを信じて罪を洗い流された、つまり神の義とされたのである。
クリスチャンは人間の正しさでは無く、神が認められた義なる者とされたのである。
「語られて、知るは己の不信仰」、キリストによってのみ、義とされた者の日々は実際これかも知れない。
知るは己の罪深き存在、だが心と目は主イエスを見上げて称えている。
実に不思議な景色をイエスは下さった。
この世の道理では理解出来ない景色だ。
であればこそ、それもこれも神がなさったことだと知るべし!
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」(伝道者の書3:11節)