■その方こそ真理の御霊です/ヨハネ14:16~21
『エデンの園、創造主は地の塵から人をかたちづくられ、その鼻に「いのちの息」を吹き込まれた。そして人は生きたものとなった。』創世記1章7節
まるで神話そのものに思えるが、聖書は物語を超えて真理を人間に伝えている。
つまり、人間そのものが何故、宗教を求めるのか?
なぜ信仰を求めるのか?
なぜ神を求め、時として自分の好む神を造ってしまうのか?
それは、そもそも人間が神によって造られ、いのちの息を吹き入れられた被造物だからである。
未来永劫に渡ってもその性質は変わらない。
いつの日か、宇宙生活に移行する時が来たにせよ、人はひとであるから、その生まれ持ってきた性質は変わらない。
自分は無神論者であると威張ってみても、それは自分自身を神格化しているだけのことに過ぎない。
人のすべてに心がある。
霊性もある。
だから、信仰を求める。
心は外から見えないが、確かにある。
心が有ること自体を無意識のうちに信じているし、知ってもいる。
そして誰の心にも必ず空間が存在する。
そのスパースを埋める(満たす)べく、心は悩み、求め、労し、錯綜する。
それでも、空いたスペースを埋めきるところまで及ばないのが人の哀れである。
また物によって、価値観によって、思考の到達によって心を満たすべく、人生という時間を消費する。
当然と言えば当然であるが、見えるものによって、見えない心は満たせない。
ここに伝道者が悟った言葉がある。
「しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんとすべてが虚しいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何ひとつ益になるものは無い。」旧約聖書伝道者の書2:13節
文字通り、伝道者は愕然としている。
そして彼は言う、「実に神から離れて、誰が食べ、誰が楽しむことが出来ようか・・」
全ての人が求める道は、行ったり来たりの迷い道、実に似たり寄ったりである。
そして行きつくところは唯の一点である。
伝道者はそれを知った。
私もそうであったように、わけの分からない対象を快く、自分の心に受け入れることなど先ず出来ない。
誰であれ、勝手に家に入られることなど由としないのは当然であろう。
増してや戸の外に立っている相手に対し納得出来なければ、ドアは開けない筈だ。
では、クリスチャンの殆どが、イエスという存在に対し、納得して心のドアを開けたのだろうか?
100%近くの人が「そうではない」「そうでもない」のである。
人は納得して、感服して、理解して、好感をもってイエスを信じたわけではない。
彼等はイエスに賭けたのである。
人間の霊性が、「よく分からないけど、キリストでなければならない」と決めたのである。
なぜ、そんなことが出来るのか?
それは人の心と霊に働かれる、キリストという「御霊の神」に応答したのである。
但し、頭ではなく、心で対応したのであると思う。
頭は知識の宝庫、経験の倉庫、分析する理性の道具であっても、霊性の住処では無い。
つまり信仰に生きるとは、人の心であり腹で決めて歩むものであって、頭では無い。
イエスは神の真理を世にもたらされた。
父もイエスも御霊も、おひとりの御霊なる神であり、この天地をおいて唯一生ける神である。
私はクリスチャンになって今年、40年を越した。
三年程前であるが、ふと考えた。「私はキリスト教をしているのだろうか?」
キリスト教とは父なる神、御子なるイエス、御霊の神を信じる教えである。
するとイエスは御子であって、生涯父には成れないのか?
御子だから、父の半分にも及ばない力量、霊力なのか?
う~ん?
だが、彼は神として生き、行動され、教えられ、十字架の上も見事に生涯を終えられた御子である。
では御子という肩書は二千年間外れないのか?
と、言いつつも教会の肩書はどこも「キリスト教会」という看板を掲げている。
キリストとはギリシャ語であるが、日本語では「救い主」、ヘブル語なら「メシヤ」である。
ヘブライ語ならメシヤ教か。(何となくヤバそう・・)
そして考えた、つまりどう考えてもメシヤ教になっていないのでは・・・
世の教会はメシヤ教にしたくないのか?
ペテロは北の山、ヘルモン山の麓、雪解け水が豪快に溢れ流れる岸辺で、イエスに向かって、「あなたこそ、生ける神の子、キリストです!」と言い放った。
まさか、川の水の勢いで言い放たれる宣言ではない。
イエスはペテロの顔を真っ向から見て、「シモン・ペテロ、汝は幸いなり!あなたにこのことを明らかにしたのは人間ではなく、天にいます我が父なり!」
別にビックリマークを付けずとも私自身、イエスさまの高揚感を熱く感じざるを得ない場面である。
旧約聖書の時代、人々はメシヤ(救い主)を待ち続けた。
何世紀も何十世紀も・・・
そして神はメシヤを人間の住む地に、塵から造られた罪びとの世に、御子として降臨されたのである。
主は塵から造られた人間と同じ体を持たれた。
人間と同様に・・・だが、彼に一点の罪の欠片もなかった。
唯一、イエスの血は聖なる神のものであって、ヨセフの血ではなかった。
仮に『どうして?』を言い始めたら、聖書の空白欄は『どうして?』という私達の書く文字で埋め尽くされるだろう。
ではなぜ、そうなっていないのか?
それは私たち人間が出来ないことを、今この瞬間も神が為されているからである。
それどころか、『どうして?』と言わず、『アーメン!』と言える信仰と霊性を、御霊なる主が休みなく働いておられるからだ。
あなたの中におられるキリストの御霊こそ、真理の神である。
「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなた方にお与えになります。その助け主はいつまでも、あなた方と共におられるためです。
その方は真理の御霊です。
世はその方を受け入れることが出来ません。世はその方を知りもしないからです。
しかし、あなた方はその方を知っています。その方はあなた方と共に住み、あなた方の内におられるのです。」ヨハネ福音書14章16~17節