■Hi's storyはMy story/その2・創世記45:1~8
「背に腹は代えられず」という言葉のとおり、カナンは一日一食の腹さえ満たせなかった。
カナンだけではなく、世界中が飢饉と化した日々だった。
族長のヤコブは自らを奮い立たせ、エジプトで囚われの身となった次男のシメオンを救い出すため及び食糧の更なる確保の二つを一度に見なければならなかった。
それよりも、何よりも、息子たちの言葉は老いた父の心を大いに揺さぶったのである。
『あなたの息子、ヨセフはまだ生きています。それどころか、エジプトを支配しているのは、彼です。』
その言葉を老いた心は、事の真相をまともに理解出来なかったが、一日としてヨセフの顔を忘れたことはなかったのである。
慣れ親しんだ住処を離れて間もなく、ヤコブは昔、父と住んだベエル・シェバに来たとき、導かれるままに父イサクの神に生贄を捧げ礼拝した。
それ程にヤコブの心は不安で包まれていたと思える。
神はその夜、幻の中でヤコブ(イスラエル)に語られた。
「ヤコブよ、ヤコブよ。」
久しく聞いてなかった神の御声だった。
思えば、こんな気持ちで神の前に静まったのは、遠く若い日に、たった一人荒野で石を枕にし、不安と孤独に押し潰されそうになっていたベテルの野以来だった。
アブラハムの神、イサクの神は今、間違いなくヤコブの神となってくださっていた。
神はヤコブを忘れてはいなかった。
ヤコブが神を忘れても、神はヤコブの神であった。
主は仰せられた。
「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。
わたしはそこで、あなたを大いなる国民にする。
わたし自身があなたと一緒にエジプトに下り、わたし自身が必ずあなたを再び導き上る。
ヨセフの指はあなたの瞼を閉じてくれるだろう。」
若い日に聞いた神の約束は今再び、同じ意味で彼の上にあった。
孤独と流浪の旅で、ヤコブに現れてくれたのは、常に神であった。
パダン・アラムへの途上で、それから20年後パダン・アラムから故郷へ帰る途上で神はヤコブに現れた。
ヤコブの人生はアブラハムやイサクよりも、はるかに人間臭いものだった。
思い起こせば「初めに神あり」でもなく、「常に神あり」でも無かった。
実に人間の生々しい部分でヤコブは生きていた。
それでも主はアブラハム、イサクの神であり、ヤコブの神であられた。
ヤコブと息子たちはカナンで得た財産のすべて、妻や子供達すべてと共にカナンを後にした。
神の嗣業はアブラハムの子孫達、イサクからヤコブへとつながる子孫を神が背負い、神が導き守り、空の星、地の砂の如くに増やし、族長から民族へと成長させることだった。
ヤコブが族長としてエジプトに移り住んだとき、ヤコブ族は息子の妻たちは別としてたった70人だった。
神は彼等を増やすためにエジプトを選ばれた。
エジプトへ移り住むこと以外に民族の増殖は有り得なかった。
ヨセフはそのために、前もってエジプトへ移り住んだ。
それは神の御計画だった。
厳しい試練の荒海でヨセフは磨かれ削られて、彼の心と魂は強くてしなやかで、繊細で優しい人となった。
それは、神が彼と共におられたからである。
冤罪と疑惑の闇の中でさえ、ヨセフは神の光の中で生きた。
それは神がヨセフと共におられたからである。
ヨセフにとって神を忘れることは自らに死を呼ぶことと同然だったかも知れない。
それ程に神はヨセフを守り支え、先見性(夢の解き証し)においてはヨセフの言葉は神のことばそのものだった。
ヨセフ物語は私達の人生と共にある。
但し、私達はどうもがいてもヨセフには成れない。
聖書の中で彼以上に正しい人はいない。
彼以上に神に守られた人はいない。
だが彼の人生は、私達の人生でもある。
それはイエス(神)が私(彼)を愛し、私のために死なれ、私のためによみがえられたからだ。
イエスは私達と共にあり、永遠の果てまでもイエスは私達と一緒にいて下さる。
私達は神から離れて生きていた。
自己中心において、利己的で保身的だった。
であるのに、どこがヨセフ的なのか。
それは神の愛を一身に受けた者として、である。
敢えて言うとすれば、ヨセフの兄弟達こそ、私達の似姿かも知れない。
妬み、嫉妬、憎悪、殺意、まるで「罪の狎れの果て」の様だった。
ヨセフを痛めることは兄弟達にとって快感だった。
そう、ヨセフの兄弟物語こそが私の物語かも知れない。
そして彼らはヨセフに赦された。
弟ヨセフをエジプトに奴隷として銀20枚で売った兄達が20年後にヨセフから聞いた言葉。
『だから、今、私をここに遣わしたのは、あなた方でなく、実に神なのです。
それで神は、私をあなた方より先にお遣わしになりました。』