■ナザレの村・大工のせがれイエス/マルコ6:1~9
旧約時代、ヤハウェ(主)に呼ばれた預言者の多くが民衆から疎んじられ、迫害も受けた。
当然ながら預言者は自分の好みで語ったわけではない。
あくまで神から語られたことばを伝えたわけである。
預言者は、迫害を承知で預言した。
それが宿命であり、信仰であったから。
クリスチャンはある意味、預言者である。
あらかじめの予言ではなく、聖書のことばを神から預かって、それを人々に伝える使命があるからだ。
しかし、人々の興味は預言者の生誕地と成長した経緯程度であって、彼が神に呼ばれ主から言葉を預かったことなど想像も出来ない事だった。
つまり、彼らは預言者が語る神の御意志よりも、預言者の顔を判断基準にしたのである。
その様な傾向は現代の私達に関係ないことだろうか?
見える外的表面でなく、メッセンジャーの霊性と宣教の言葉で事の真意を知るべしである。
預言者はバプテスマのヨハネで最後である。
はっきりさせておきたい!
預言者の時代も、律法時代も二千年前に終わっている。
主は既に聖書の言葉をもってすべてを語り尽くされた。
つまり、聞くべきことはすべて語られたということであろう。
預かる言葉は自分の頭と口から出る自分の言葉では無く、聖書の言葉である筈だ。
人よ、此処からあなたはどう考える?である。
新しい考えとか言葉が現聖書に付け加えられることなど全く無い。
つまり時代に合わせた解釈をすべきではない。
主と主の言葉に対し、昔と今という比較において解釈が異なることなど、ほんの僅かしかない。
永遠なる神は永遠に向かって語られた、のである。
主は永遠の昔から変わらず、人間自身も創世記から変わってないのだ、本質的には。
イエスは言われた、『律法と預言者はヨハネまでである。』(ルカ16:16)
遂に新約時代の扉が開いたのである、二千年前に。
イエスは生まれ故郷ナザレの村で、安息日に会堂で教えておられた。
人々はイエスの教えに驚いた、そして深く感動した。
それは通常のラビたちと異なり、目の前で生ける神の如くに話されたからである。
ところが人々の感動は別の考えによって、感動は即座にかき消されてしまった。
それは彼等ナザレの人々にとって目の前の男は、幼いころからよく知り、ついこの間まで大工仕事で生計を立て、母や兄弟姉妹達を養っていた今は亡きヨセフの倅、イエスであるいうことだった。
彼等は言った。
「この人はこういうことを何処から得たのだろう。
この人の知恵や手で行われる力やわざは一体、何だろう。
この人は大工ではないか。マリヤの子で兄弟も姉妹もいて、我々とこの村に住んでいるではないか?」
こうして彼らはイエスに躓いた。
聖書は言う、「イエスはナザレで何ひとつ力あるわざを行うことが出来なかった。」と。
一つ目、ナザレの人々は確かにイエスを知っていた。
だが、彼等が知っていたのはイエスの生い立ちであって、公生涯に入った後のイエスを知ったわけではない。
彼等はとって、イエスの言葉と行動がどれほど大事なことであって、生い立ちなど二の次でよかったのである。
折角、教えと不思議に感動しながら、すべては過去の思い出が消し去った。
果たして現代、イエスを「よく知っている人々」は誰だろうか。
それはキリストの教会で礼拝をし、礼拝に集まる人々である。
聖書を学び、イエスの御名を頻繁に口にする人たちではないか。
では、イエスを「どの様に知っているか」という点については如何なものだろう。
よく知っている点は、イエスはあくまで「御子イエス」というということ、祈りの最後に必ず口にする「イエスの御名によってお祈りします」ではないだろうか。
ではピリポとイエスの会話から何を学ぶだろう。
先ずイエスが言われた、「あなた方は、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていた筈です。しかし、今やあなた方は父を知っており、また、既に父を見たのです。」
ピリポはイエスに言った、「主よ、私達に父を見せてください。そうすれば満足します。」
イエスはピリポに答えられた、「ピリポ、こんなに長い間あなたがたと一緒にいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。
わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは『私達に父を見せて下さい。』と言うのです。」
弟子達は朝から晩までイエスと一緒に時を過ごした。
不思議なわざを毎日、目にした。
イエスは確かに彼の手と言葉で行われた。
弟子達にとって主は単なるナザレの大工の倅イエスではなく、約束のメシヤイエス・キリストであったのに・・・
ならば、クリスチャンは身をもってイエスご自身を知ったのだろうか。
知識だけでも教えだけでもなく、自身の人生と体験を通して・・・聖書と自身の生活において。
イエスの言葉に由るなら、「あなたがイエスを知るとき、あなたは神を知る、見る。」のである。