■apostle(使徒)/マタイ10:1~10
「使徒」とは、イエスが直接的に呼び出された人々、つまり12弟子のことである。
但し、パウロは十字架以前のイエスからではなく、復活後のイエスに呼び出されたので、自らを「月遅れで生まれた、そして最も小さい者、使徒パウロ。」と告白した。
ペテロにアンデレ、ヤコブにヨハネ、彼らはそれぞれ兄と弟達だった。
すべてガリラヤ湖で魚を獲る漁師だった。
ヤコブは怒りっぽいので「雷の子」と揶揄された。
ピリポにバルトロマイ、トマス、マタイと続く。
マタイはレビとも呼ばれたので、祭司系の出であったかも知れないが、彼は取税人だった。
当然、一般社会の人達には嫌われる仕事だった。
ヤコブにタダイ、シモンにユダ・・・
ここで、もう一人ヤコブと言う名が登場するが、こちらのヤコブは区別するため「小ヤコブ」と呼ばれた。
シモンは「熱心党のシモン」と呼ばれたが、それはユダヤ教の中でも特に際立つ国粋主義者の一員であったらしい。
ユダはイスカリオテのユダと呼ばれた。
ガリラヤ出身者の多い使徒達の中で、彼がユダ地方のケリヨテ出身であるからと思われる反面、ケリヨテとはアラム語では「偽善者」という意味にもつながった。
以前、私がクリスチャンになった頃であるが、「イエスの教会員には、ろくで無しが多かったなぁ」と感じたことがある。
イエスはなぜ、そういう人たちを敢えて使徒として呼んだのだろう?
わからなかった・・・
今も分からないが、果たしてクリスチャンとて使徒達とは大差ない者と悟った。
神の栄光が現れる為、神は敢えて小さき者、欠けある者、愚かな者を選ばれた。
アーメンである。
apostleと書くが、英語読みでは「アパッソ」と発音する。
彼等の一番の特徴は「ろくでなし」という皮肉では無く、「イエスから直接呼び出された」ということである。
しかし!である。
私達クリスチャンにせよ、御霊なるイエスから直接呼び出されたことは事実である。
増してや、私達はイエスの血潮によって直接、この身体と魂を洗い流された者達ではないか。
であるなら、もっともっとイエスを知りたいと思うのは私だけではあるまい。
私達が呼び出されたことにせよ、主のご目的があった。
それはイエスに遣わされ、イエスのご意志を他の人々に伝えることである。
端的に言うなら、それ以外に無い。
福音を伝え、イエスとイエスの御愛を伝えること。
教会が、誰かが、何とか団体が遣わすのではない。
イエスによって遣わされたのである。
そういう確信をもつことは最も大切である。
使徒達に与えられたのは「汚れた霊どもを制する権威」だった。(マタイ10:1)
それは二千年前の人々が支配されていたのが汚れた霊であったからだ。
その権威はイエスから直接的に与えられなければならなかった。
現代、このことは既に遠い昔の話だけであろうか。
実に、20世紀、21世紀までも汚れた霊に捉えられていたのは私達そのものだと思う。
聖なる義なる神から離れて、キリストの弟子にさえも成れなかった私達である。
しっかりとイエスに捉えられなければならなかったのは私達である。
イエスに捉えられて初めて、自分は汚れた霊に捉えられていたことを知った。
イエスが誰かを介して、私達に救いを伝えられた。
聖書を通して語ってくださったのはイエスである。
つまり、信仰は聞くことから始まったのである。
私が悟ったのではない。
仮に自分の力だけで悟れるなら、信仰とは人が開拓するものとなる。
イエスが人を介して語る御言葉を聞けることは生きる人間にとって一番の祝福である。
ではあなたは今、イエスから直接的に語られ教えてもらっているだろうか。
以前は誰かを介してであったかも知れない。
しかし、直接的に聞かされる、語られること以上に力あるものは無い。
apostle達は一見、何となく頼り無い人たちに見えたが、イエスに送り出され使命を果たしたのは事実である。
それは彼等がどんな人間であったかより、イエスが見つけ、イエスが選ばれ、イエスに教えられ、イエスに権威を与えられ、イエスに遣わされた者達だったという事である。