■たかが子供の弁当ですが/ヨハネ6:1~15
美しいガリラヤ湖面を取り囲むように周囲に丘が連なっている。
丘から丘へと埋め尽くす蟻の如く、数えきれない群衆が一人を求めて集まっていた。
中心はナザレのイエス、そのひとだった。
それはイエスから癒しを受けるべくして集まった人々、またイエスの不思議なわざを見るためだった。
イエスの行動を期待する人々を見渡したあと、イエスはピリポの顔を見ながら言われた。
「ピリポ、一体どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか。」
その付近でパンを売っている店など無いことはイエスも勿論、承知の上だった。
ピリポはイエスから問われた言葉を耳にし、おびただしい群衆を見やりながら計算した。
「先生、全員が少しずつ食べるにしても200デナリ(200日分の労賃)では足りませんね。」
そして聖書は語る。
「イエスはピリポを試して、そう言われたのである。イエスはご自分でしようとしていることを知っておられたからである。」
そこでこの場面、私達が心留めるべきものがある。
主は少なからず、何気なく生きる私達の日々の中で、私達を試されている。
何ごとも無いような日々の中であっても、私がどれほどに主を意識し、全知全能の神を念頭に意識しているか、ということ。
人間は当然の如く、目の前の景色と状況を見て判断している。
つまり、この現実に生きるだけの者だとすると、見えない方(神)を意識することは先ず無いであろう。
ピリポの目に5千人の群衆が映っていたにせよ、目の前の方はナザレ村のイエスでしかなかったということだろうか。
人間とは各も狭い視野しか持っていないのだろうか。
私達は祈る、イエスを想いつつ。
私達は聖書を読む、見えない方を見るが如くに。
私達の捧げる礼拝においては、最も身近に神を拝し。求めつつ・・
だが、仮に現実場面で人々に必要なパンの量を問われたとしたら。
ああ、ピリポはそれから僅か一時間程して起こる奇跡の瞬間、いったい自分は何を思っていたか思い出しただろうか。
目の前にイエスを見ていてながら、奇跡の主を意識出来なかったのか。
ペテロの弟のアンデレが、子どもが抱え持っていた包みを指さしてイエスに申し上げた。
「先生、子供が持っている弁当がここにあります。五つの大麦パンと二匹の小さい魚です。でも、こんなに大勢の人々では何の役になりましょう。」
ここでふと、感じたことがある。
この場面、イエスはアンデレの顔を見ながら、何を思われたのだろう。
私は想像する、「主は思わず、クスッと笑われた」と。
イエスはその子供の弁当によって、5千人の腹を満たすことを考えておられたのだ。
たかが子供の弁当を、とアンデレは思った。
問題にしようにも、ならない程に小さい弁当。
するとイエスは弟子に言われた。
「人々を・・座らせなさい。」
イエスは真顔で言われ、弁当を受け取ると、それを両手で天に差し上げ、父に祝福を求められた。
そして弁当を弟子に手渡すと言われたのだ、「五つのパンも、二匹の魚も全員に欲しいだけ分けてあげなさい。」
人から人へ、一個の小さな弁当は手渡され巡って行く。
だが、誰が取っても、幾人が取ろうとも弁当の中身は常に有り続けるのだった。
この場面、あなたは何を思うだろう。
幾ら取っても、中身が減らない弁当を目で追うだろうか。
それとも弁当を食べる人々を見ているイエスの御顔だろうか。
または弁当を配る弟子達の驚きの顔だろうか。
キリストを信じる人生とは、イエスが共におられるだけで、私達は満ち足りる。
渇いた魂、渇いた人生であろうと、イエスが共におられるだけで満足させられる。
イエスが伴われる人生が何より大切であって、イエスが伴われない人生は考えられないのである。
ひとの心は目には見えない。
見えない心を物や金で満たそうとしても満たせない。
イエス御自身が満たしてくださるのだ。
決して私が満たすのではない。
私が満たすとしたら、すべて世のものでしかないからだ。
イエスは言われた。
「余ったパン切れを一つも無駄に捨てないように、カゴに集めなさい。」
彼等は集めてみた。
すると大麦のパン五つから出たパン切れは12の籠にいっぱいになった。(ヨハネ6:13)
どうしてイエスはパンきれを集めさせたのか?
食べてしまったパンは確かに人の腹を満たしたが、腹はまた減るものだ。
しかし、たかが子供の弁当から出た12の籠のパン切れは、彼らの目に生涯焼き付いて消えなかったであろう。
イエスが祝したパンは「たかが子供の弁当」ではなかった。
それは神が祝された弁当となった。
パンのことも、味も忘れたにせよ、私達は生涯、12の籠のパン切れを忘れることはあるまい。
神、共におられるから奇跡は起こる。
イエス、共におられるから奇跡は起こる。
私と一緒に生きて下さるイエスがいるから、今日も勇気と平安がある。