■五旬節の奇跡/使徒2:1~15
春分の日の後、最初の満月の次の日曜日が、私の大好きなイースター(復活祭)である。
あくまでも教会暦であるが、本元はユダヤ暦から来ているため、年によって移り変わる。
イースターから数えて、ほぼ50日目が五旬節(ギリシャ語で50、つまりペンテコステ)の日となる。
あの日、神の御霊(聖霊)がキリストの弟子達一人一人に激しく下った(降臨)と聖書「使徒の働き」にある。
弟子達はひとつ所に集まって祈っていたが、突然激しい風のような音が彼らのいた家に響き渡った。
そして炎のように分かれた舌が弟子達それぞれにとどまった。
すると彼らは御霊が話させて下さる通り、他国の言葉を話し出した。
エルサレムに来ていた人々はそれを聞いて呆気にとられた。
その言語は完全に他国のことばだったということ、それを知っている人には理解出来たということだった。
事実、そのこと自体到底理解出来ないことだった。
彼等が言う。
『私達はバルテヤ人、メジヤ人、エラム人、メソポタミヤ、ユダヤ、ポントアジア、フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤに住む者達、滞在中のローマ人たちで、ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私達の色々な国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。』使徒2:9~11節
誰もが驚き惑って、これはいったい何が起こったのか、と怪しんだ。
ある者はあきれ返って「彼等は甘い葡萄酒に酔っているのだろう。」と言った。
しかし、これはあの日に起こった真実の出来事だった。
神の御霊が弟子の一人一人に下って彼らを満たし、御霊が自由に多国の言語を話させたのである。
どの様にして?と人は問う。
人間であれば、それが当然である。
だが、神がそういう結果をもたらされた、と言うしかない。
始めに神の約束があって、やがてそれが実現する、ということ。
それしか説明しようがない。
神が為さったことですからと言う以外、説明の仕様がない。
聖書の世界とはそういうものであって、キリストが結果をもたらされるのだ。
人間が理解できるように・・ではない。
クリスチャンとはそういう神を信じて生きている、と思う。
実際に、そうなる為のプロセス、経緯、方法、スキルなど説明出来ないし、する必要もない。
分からなくてよいのである。
第一、分かる筈もない。
主のみ、ご存じである。
聖書の神とは「そういう方である」と信じることが賢いことだから。
主が必要とされるならば明らかにされ、主がよしとされるなら、隠される。
それさえも、神の摂理の下、やがて悟らされる日が来るのである。
五旬節の日から10日さかのぼる。
復活のイエスに弟子達が問うた。
「主よ、今こそ、イスラエルのために国を再興して下さるのですか?」
イエスは応えられた。
『いつとか、どんなときとかいうことは、あなた方は知らなくてもよい。それは父がご自分の権威を持ってお定めになっているから。』
そして、弟子達は一つところで心を合わせ、祈りに専念していた。
主の約束により、もたらされた不可思議な出来事は、あの日に起こった。
それは「イエスを信じた人々に、神の御霊が降りて下さって、彼らを満たした」ことである。
その日以来、この地上でイエスを自分の心で信じ、死んでよみがえられたイエスを口で告白する者には聖霊が下り、人は救われる。
それはこの先も変わらない。
キリスト教には修行も鍛練もない。
段もステージもない。
完成も未完成もない。
あるのは「キリストと生きる」それだけである。
イエスを信じたとき、「永遠の命と罪の赦し」をいただいた。
クリスチャンは拘束されることはない。
自由である。
但し、「世が教える自由」ではない。
したいことをする、言いたいことを言う、それは世が考える自由観だ。
つまり、私達は言わずにいられない、せずにはいられない、これは不自由なのだ。
そうではなく、自分が選べる自由こそ本当の自由である。
自分にとって徳となるもの、益となるものを選べることこそ、真の自由である。
はっきり言って「世が考える勇気」も要らない。
本当の勇気とはイエス(御霊)が直に教えてくれる。
思えば、私達人間は聖書の神が求める道とは、真逆の生き方をしている。
キリストを信じて、本来人間が生きるべき人生を知って欲しい。
あなたの人生は確かにあなたのものかも知れないが、結果として、それに相応しい生き方になっているだろうか。
こ難しい理論や理屈でなく、シンプルで分かり易い「イエスの道」を歩いてください。
聖書は決してあなたを騙しはしない。
40年前、私は創世記でアブラハムがとことん信じた神を「アブラハムが信じた、その神に賭けてみよう」と思った。
そのこと以外、聖書の何にも知らなかった。