■神、共におわしませば/マタイ7:15~29
確かに、やっとのことでカナンに居場所を確保出来たアブラハムとサライ、それでも神の約束は現実、目に見えるものに至ってなかった。
「もしかして、あの日、聞いたのは幻だったのか・・」とアブラムは心中模索した。
その晩、主のことばが幻のうちにアブラムに臨んだ。
『アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。』
幻のうちに聞こえた声にアブラムは思いを吐露した。
「主よ、いまだ私には後継ぎがいません。もしかして相続人は私のしもべなのですか?
それとも私の家で生まれた奴隷の子供なのでしょうか?」
主のことばが彼に臨んだ。
『アブラムよ、あなた自身から生まれ出て来る者だけが、あなたの跡を継ぐのだ。』
主は彼を外に連れ出して仰せられた。
『さあ、天を見上げ、星を数えることが出来るなら数えて見よ。あなたの子孫はこのようになる。』アブラムは夜空を見上げた。
思えば子供じみた奇想天外な展開でもある。
年老いて、既に胎が閉じられた様な妻のサライに子供など出来る筈もない。
たったひとりの子さえ与えることの出来ない神が、どうして天の星の数程の子孫を下さるのか。
しかし、アブラムの目は空の星に釘づけにされた。
大小輝く宝石を散りばめたような星達は、呼吸をするかの如く天つ国に輝いている。
(私の個人観であるが、この場面は旧約聖書で最も感動的で美しい瞬間である。)
@そして聖書は一言だけ記す。
「彼は主を信じた・・」主はそれを彼の義と認められた。
私達が勘違いしているものがあるとしたら、「自分の頭で想像した計画と可能性」という規制枠を神に対して当て嵌めていることかも知れない。
人間が神に及ぶ力も知恵も創造性も、まったく及ぶべきものはゼロであるのに、である。
アブラムは神の御旨と御手のわざを、あの夜空に見たとき、実に純粋に神を信じた。
そういう純粋で素直は目と心が私達に求められていると思う。
思えば、神からの賜物である信仰であるなら、その神に相応しい見方、生き方、考え方であるべきなのに、「人間のものにしてしまった範囲で」私達は生きている。
「神は全知全能なる方」、ここに戻ること以外に修復は絶対不可能である。
イエスが言われた。「わたしの言葉を聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人と言えよう。洪水が来て大風が吹いても彼は家を失わずに済んだ。
わたしの言葉を聞いて、それを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に似ている。洪水が来て、大風が吹くと家はひどい倒れ方だった。」
クリスチャンであるなら、聞いた聖書の言葉、学んだ言葉、考えた言葉、心に深く沁み込んだ言葉はいつの日か必ず生き方に、自分の言葉に、つまり言動と行動に表れると思う。
神の言葉は決してじっとしてはいない。
日本人キリスト者は、置かれた環境が99%以上ノンクリスチャンであろうと、表面化しようとする力は止めようが無いのである。
私達の内なるキリストは、いつまでも内にだけ留まっておられる方ではない。
「彼はそういう方」であることを、私達は認めるべきと思う。
ましてや、この時代はキリシタン禁制の時代ではない。
私達に与えられた霊は、「おくびょうの霊」ではなく、愛と力と慎みの霊である。
イエスが言われた「岩の上」とは?
つまり私達の「人生という家」を聖書という神の言葉の岩盤上に、イエスの基礎石、イエスの材料、柱、壁、屋根、それらすべて神から提供された建築資材で造る。
「砂の上とは」?
自分中心で立てた人生は結果的に「砂上の家」でしかない。
その上に神の建築資材は似合わないし、支給されようが無いからである。
結局、すべては自分の選択であったのだが・・・
当然ながら大風にも洪水にもひとたまりもなかった。
今日までの人生が、仮にどうであったにせよ、私達は生きている限りいつでも再スタートが可能である。
人が生きているのであれば、生けるキリスト以外に相応しい信仰の対象があるだろうか?
あなたがキリストに出会った瞬間、あなたは生きることの本当の意味、生きることの尊さを生まれて初めて知るだろう。
それは自分から知るのではなく、キリストが教えてくれるのである。
生きるとは単に食べて飲んで働いて眠って、ではない。
それはあくまで魂という人間の営みでしかない。
人は霊性を秘めて生まれて来ているが、その霊性は聖書の神だけが「覚ます」ことが出来るのである。
アブラムは神を信じた。
「さあ、天を見上げなさい。星を数えることが出来るなら、それを数えなさい。」
先ず、主の招きがあった。
主が言われた通りに、アブラムは天を見上げた。
結局、これほどにシンプルで他愛無い様な経緯であっても、魂は救われ、霊性が備わるということである。
幾ら、頭の中で悶々と考えらにせよ、心が固く閉じていては、人生何にも始まらない。
始まらないだけで終わってしまうのは、何とも物悲しい限りである。
あなたの人生は、そのためだけの人生ではなかった筈なのに・・・