■人の子は安息日の主です/マタイ12:1~14
ユダヤ教が位置づける「安息日」とは、「汝、働くべからず」であった。
創世記の冒頭で語られる記事には、神が第一日から第六日に掛けての六日間で、すべてのわざを終えられ、第七日目は休まれたとある。
(但し、ここでいう一日を24時間と考えないように。あくまで聖書が考える一日である。)
神はその第七日目を「祝福」し、この日を「聖」であるとされた。
つまり安息日の根源は「安らぎ」「休息」「祝福」「聖」、だから安息日なのである。
「仕事をしない日」としたのは、ユダヤ教が人民に対して押し付けた、非常に分かり易い律法遵守の仕方だったからかもしれない。
「安息日絶対労働禁止」は民にとって、他のどんな律法よりも辛かったかも知れない。
安息日という文言は安らぎどころか、民全員が周囲の誰かに見張られている様な苦しみの日々だったかも知れない。
イエスが安息日の会堂、町角、通り、池、泉の畔において癒しのわざを為さろうとする際、必ず祭司長とパリサイびとの目があった。
それはイエスを告訴する目的があったから。
だが、イエスは敢えて彼らにチャレンジしていた。
手が萎えた男、立てなかった男性、目の見なかったひと、大勢の人々がイエスによって、安息日に癒された。
まさに、癒された人々にとってはイエスは「神の安息日」だった。
ある安息日の会堂。
手の萎えた人がいた。
イエスが入って来られた。
そこでユダヤ人達はイエスに対し、機先を制して言った。
「安息日に癒すことは正しいでしょうか?」
イエスが答えられた、「あなた方のうち、誰かが羊を持っていて、もし、その羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないのですか?
人間は羊よりはるかに値打のあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをするのは、正しいのです。」
そしてイエスはパリサイびと達に言われた。
「人の子は安息日の主です。」
霊妙な言葉だった。
イエスが安息日の主人、つまり安息日を造られた神であるという意味にとる。
イエスがよみがえられた日(週の最初の日)に教会は礼拝を行う。
イースターは年に一度であるが、日曜日は一年に50回を超す。
喜びと感謝は止まることなく、尽きることなく沸き起こる。
キリストは素晴らしい。
クリスチャンとは何と恵まれた人々だろう。
クリスチャンは絶対に「クルシミチャン」ではない。
榎本保朗師が言っておられた。「人間は神を喜ばすことなど出来ない。そういう事自体がおこがましいのである。」
ああ、私達はどれほど神に喜んでもらおうと行動しているだろう。
どれほど神を悩ませ、悲しませて来たことも忘れて・・・
そして師は言われた、「私達が神を知ったことこそ、喜びである」と。
人の子は安息日の主であると、ご自身で宣言されたイエス。
この方を覚える日こそ、日曜日であり、礼拝であり、賛美であり、祈りであって教会の交わりである。
日曜は主のものである。
主を喜ぼう!
彼こそ、主の日の主人である。