■開いていても見えない目/ルカ24:13~32
いつも分かち合う体験談。
通い慣れたファミレスで働くお母さん。
馴染になったこともあり、ニコニコと細やかなサービスもしてくれる。
その店に行くと必ず出会うお母さん。
私の中では、無意識に夢庵・母さんとして位置づけししていた。
ある日、スーパーで出会った女性。
あれっ、誰だっけ・・・分からない。これってなんだろう?
何処かで会ったひと?
思い巡らしても、分からない。
そこで思い切って彼女に聞いてみた、「どこかでお会いしましたよね?」(爆笑もの)。
彼女がにこやかに言った、「夢庵です」。
二千年前、イエスがよみがえられた日の夕刻、エルサレムから「エマオという村」へ急ぐ二人の男性はイエスの弟子だった。
彼等の師は三日前にむごたらしく十字架刑を受けて亡くなった。
それが極悪人に与えられるローマ式の処刑だった。
そう、彼らが慕う師、イエスは間違いなく殺された。
ところが三日目の今朝、冗談としか思えない出来事が彼等の耳に飛び込んだ。
婦人達の話によるとイエスの死体が無くなっただけではなく、イエスがよみがえって彼女の前に立たれ、声まで掛けられたというものだった。
「馬鹿らしい!」男たちはそう思ったであろう。
しかし、マグダラのマリヤは「これは間違いなく本当のこと」と言い張っているらしい。
急ぎ足で歩く二人は三日前の出来事を話合っていた。
いつの間にか、男が二人に近寄って一緒に歩いていた。
しばらく二人の話に耳をそばだてていたが、急に口を挟んできた。
「今、話しておられるそのことは何のことですか?」
二人は立ち止まると暗い顔つきなって言った、「あなたはエルサレムにいながら、近頃起こった出来事を知らないのですか?」
三日前に十字架刑が行われたことだった。
「ナザレのイエスという方は、彼は私達の希望であり、明日を生きる力の源でした。イエスは二度と出ない預言者でした。ところが祭司長や指導者はイエスを十字架に架けたのです。」
彼等の内では意識として、イエスは十字架で確実に死なれたのであり、現世にはおられない方だった。
間違いのないその事実は、彼等の目と心を完全に遮断してしまったのだろうか?
イエスという方は既に、彼らの理性という部屋に入ってしまった存在だったのか。
それからの話題は今朝方、婦人たちが見たよみがえり情報として進むが、二人の弟子にとっては何等の確証も実感も伴っていなかった。
だから、現実において確認出来たことは「イエスの遺体が見当らない」というものだけだった。
二人の弟子は目の前の男がイエスであることを認識出来なかった。
彼等の肉眼には到底くつがえせない次元だったのか。
人間の肉体的機能とは、各も肉なる力の強烈な支配下に置かれているということか。
私達とはそれ程に、目の前しか信頼しない、見極められないものであるということか。
三人は目的の村に近づいていたが、陽は既に落ちて暗くなっていた。
イエスは彼らに対して聖書全体からメシヤの到来と苦しんで殺される経緯を話したが、二人はその先をもっと聞きたいと思った。
そこで無理を承知で願った。
「もう暗くなったので、此処に泊まっていって下さいませんか。」
彼等は向かい合って食卓に着いた。
男が二人の目の前で食卓を祝福し、パンを取り上げ、裂いて手渡した瞬間・・・・
二人の眼が開いた。
「主だ!」
そして二人の目の前からイエスは消えた。