■2018・最後の晩餐/ルカ22:14~24
年に一度のイースター(復活祭)。
クリスチャン、特に教会生活を送っている信徒にとって、これほど大きな力を与えられる時は無い。
でも、その三日前の木曜日夜の「最後の晩餐」は実に意義あるものだ。
イエスが遂に十字架の道へと歩を進めた第一段階であり、既に覚悟を決められた次元である。
イエスはご自身で、十字架に架かることを由とされていた。
誰のために?
あなたのため、私のためである。
今、あなたが仮にクリスチャンでないとしても、イエスはあなたのために死んで下さった。
生涯、イエスを知らずに亡くなった人たちのためにもイエスは死なれた。
クリスチャン生活がスカスカの信徒のためにも彼は死なれた。
教会生活が遠い昔だけだった、という人のためにもイエスは死なれた。
イエスが大嫌いの人のためにも、イエスは死なれた。
イエスは「そういう死」を選ばれた。
そして十字架の上で断末魔の叫声を発せられた。
「完了した!」
そう、彼は完了されたのである。
しかし、完了されていなかったと、私はしばらくの間思っていた。
第一、イエスの教会は?
十字架刑のとき、弟子達のほとんどは逃げてしまった。
遂にイエスの教会は崩壊したのである。
三年の間、日夜イエスと共に旅し、不思議を体験し、決してイエスから離れなかった弟子達。
群れはどんどん増し加わり、名も知れない人々もイエスの後を追い、弟子達を世話する婦人たちも増えたのに。
先は何とも明るい見通しが開けていたのに。
やがてイスラエル中にイエスの教会員でいっぱいになるとさえ思ったであろうに。
あれはなんだったのか?
弟子達は弟子達でローマの圧政の下から、華々しく開放のラッパがイエスの弟子達によって吹き鳴らされる時が来るかもと思った。
或る弟子達は、やがて神の国が建てあげられ、弟子の誰かがイエスの右に、イエスの左に座る時が来るとも思った。
そのことを早とちりし、鵜呑みにした弟子の母親もいた程だ。
これが「最後の晩餐」と確信していたのはイエスだけだった。
弟子の誰一人、そのような切羽詰った状況を微塵も感じてはいなかった。
しかし、「あの晩」のような空気は今まで一度も無かったことだった。
重く気だるい動かない空気が淀んでいる様な、立っている足元の土がぽろぽろと崩れて行く様な、不安と心細さを禁じ得なかったであろう。
突然、誰かが明るく振る舞って言った。
「俺たちの中で、一体どいつが一番偉いと思う?」
その言葉には幾人もが興味を持った。
話は盛り上がった。
そして、その短い時間だけ、その場の空気が動いたようだった。
だが、イエスと弟子達の体は依然として晩餐のテーブルを囲んだままだった。
そして、すべては未完成のような完成へと突き進んでいった。
弟子の内、誰ひとり其の後に起こる事態を想像出来た者はいなかった。
誰ひとりイエスの胸の内は知らなかった。
状況を完全に把握していたのは、イエスだけである。
そういう空気の中で過ぎ越しの祭りを祝うべく、たった一度の「最後の晩餐」が始まった。
21世紀、教会が催す「最後の晩餐」は当時とまったく異なる。
21世紀の弟子達は「晩餐」の目的を理解している。
イエスは2千年前に死なれ、三日目によみがえられている。
では、どこに「最後の晩餐」をする意味があるのか?
それは2千年前の「あの夜」の弟子の心、イエスのお考えを、たとい僅かであっても共有したいからだ。
愛した弟子達との別れ、天の父との別れ、壮絶な苦しみの十字架刑、30年間見て来たガリラヤの景色、ナザレ村の人々、イエスにとってどれをとっても、すべて愛おしいものだった。
自分を慕う弟子達、婦人達、そして母マリヤと兄弟姉妹達・・・・
だが、各段に重く高いハードルは「人類のすべての罪を背負う十字架」だったと思う。
罪を知らないイエスが、罪を味わったことさえ無いイエスが、人類の罪を背負い贖いの死の苦しみを味わう。
「最後の晩餐の夜」でなければ体験出来ないものがある。
そこでのみ吐露出来る胸の内。
不信仰な自分、不従順で身勝手な自分を認めつつ、主に祈りつ打ち明けられる程に解放されゆく場所。
それが「最後の晩餐」という部屋。
兄弟姉妹、主にあって教会の家族として、議論もぶつかりもあり、祈り会で他者への執り成し、そして礼拝と交わりを含むすべてこそ、主の恵みと祝福と信じて飲み干すイエスの血潮・・・裂かれた御身体を象徴するパンを胃に落とす。
ここに、まことのキリストの教会がある、と思った。
礼典とかセレモニーでは無い!
これが教会だ
そして、最後の晩餐は2018年の現実となる。