■もし、お出来になるなら/マルコ福音書
年端も行かない息子が奇病にかかって水の中、火の中を転げ回るなどする行動に困り果てた父親が、イエス不在の時に弟子達の所に行って子供の癒しを願い出た。
しかし、弟子達にとって手をこまねくだけだった。
しばらくしてイエスが帰ってこられ、状況を察知されて言われた。
「ああ、不信仰な世だ。いつまであなた方と一緒にいなければならないのだろう。いつまであなた方に我慢しなければならないのだろう。」
そしてイエスは父親に尋ねられた、「この子がこうなったのはいつ頃からですか。」
父は言った、「幼い時からです。この霊は息子を滅ぼそうとするのです。ただ、もし、お出来になるものなら、私達を憐れんでお助け下さい。」
果たして私たちは普段から、どれほどにイエス・キリストに信頼しているだろうか?
いかに彼を信用し、期待しているのだろうか?
父親の信仰を推し量ることと以上に、自分の信仰を推し量る時であろう。
この聖書箇所は常に私達の信仰に関して問われている。
父親の言葉から察すると、彼はイエスに対して殆ど信用していなかったとさえ思える。
「ただ、もし、お出来になるなら・・」
この言葉は一見、謙遜に思えるが、イエスに対する逼迫した期待感がない。
息子の状況は切羽詰ったものだった。
彼の命に関わる重大なものだった。
それでも、父親の言葉から必死さが伝わってこない。
ほぼ半ば諦めていたかのようである。
若しくはイエスへの圧倒的な信頼が無いように思える。
別の聖書箇所にカナン人女性の娘へのとりなし場面がある。
あのとき、母親はイエスからこれでもかと思うくらい、コテンパンに卑下され、度外視された。
凡そ現代ならパワハラ、モラハラだった。
「主よ、どうか私の娘を治してください。」
彼女はどこまでも食い下がった。
弟子達はうるさくつきまとう女性の為に、「先生、もう帰してやってくださいませんか。」と言った。
犬呼ばりされ、どんなに無視、あしらわれても諦めなかった。
そして遂にイエスは彼女を感嘆して言われた。
「ああ、婦人よ、あなたの信仰はりっぱなものだ。見上げたものだ。その願いどおりになるように。」
「ただ・・もし・・お出来になるものなら・・・」
私達の祈りはこの程度のものでしかないのかと思わされる。
こんな期待薄の祈りでも答えて下さる神なのだろうか。
イエスはいわれた、「出来るものなら、というのか。信じる者にはどんなことでも出来るのです。」
そのとき、父親はイエスに言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」
内なるところの信仰でも、不信仰でも、イエスの前にあっては単刀直入がよい。
遠慮やら消極性といったものは、敵と思うべし、である。
神はすべてをご存じなのだから、周りくどい説明は要らない。
だから、今、自分が何を主なる神に伝えたいのか、願いたいのか、そのことを真直ぐに祈るがよいと思う。
緊急のときなどは、焦りも加え、心からほとばしり出る様な祈りになるだろう。
理性など働かせる余裕など無いほどであろう。
回復の願いを一本の刀に託し、神の前に出て跪くことだって必要な時もあるのだ。
生と死の境にいる、まだ救われていない魂のための祈りは、文字通り叫びでしかないだろう。
ヨハネ4章24節でイエスが言われたこと。
「神は霊ですから、神を礼拝する者は霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
日本語辞典では「霊とは人間に宿る精神的実体」とある。
だが、人の霊とは御霊なる神が人に付与されたものである。
直接的に1対1で向き合って、賜ったのが信仰であり、霊なのだ。
当然であるが、新生したクリスチャンだけがその対象である。
御霊なる神とは、聖書の神だけであって、人が作りだしたものではない。
はじめからおられた方であり、永遠に存在される方こそ、御霊の神である。
ヘブル書4:12
「神のことばは生きていて力があり、両刃の剣よりも鋭く、魂と霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心の色々な考えやはかりごとを判別することが出来ます。」
神のことばで先ずは己が身と心を研ぎ澄ますことは、何よりも私達に必要なことであると思う。
もしそうであるとしたら、「ただ、もし、お出来になるのでしたら・・」という祈りなど皆無となるであろう。