■霊妙なる主の調べ/創世記11::22~32
- 旧約聖書/創世記
- 2018年1月28日
- 読了時間: 4分
遠い昔、創世記の時代、ある家族が慣れ親しんだ故郷ウルを後にした。
ウルという町はペルシャ湾に向かって流れる二つの大河、ティグリスとユーフラテスが一つになって合わさる一歩先にあった。
土地は肥沃で、貿易も盛んな町はカルデヤ人の住む町として、月神礼拝が中心の生き方だった。
人が増えれば文化も賑やかとなり、また風紀は乱れ、求める快楽はより派手になっただろう。
そういう町は多くの人の心を虜にした。
そういう町に住んでいたテラと言う人はようやく重い腰を上げた。
息子のアブラムが父テラを説得し始めて一年超、家族はカナンを目指して旅立ちの支度を始めた。
アブラムは月を神として生きる民から、いつかは逃れたいと思っていた矢先、夢か幻の中で聞いた声が忘れられなかったのである。
「あなたは生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地に生きなさい。」
アブラムはその声を無視することが出来なかった。
実に明快で自分の思いと重なった。
だが、彼はふと思った。
「あの声はやはり自分の心の声だったのかも知れない。」
敢えて忘却の彼方へ押しやろうとしても、その言葉を打ち忘れることは出来なかった。
聞いてから二か月後、彼は思い切って父のテラに申し出た。
但し、それはあくまで進言としてのものだった。
高齢となった父を変に刺激したくないという思いがあった。
或る意味、それが分かっていたので、アブラムは日数をおいては、じわじわとテラにせがんで見た。
このことが、もし神からの招きであったなら、父はいつか受け入れてくれるかも知れない。
そう思うアブラムの心は妙に軽くなるのである。
そして一年後、いつになくテラが声を掛けてきた。
こう言った、「なあ、アブラムよ。お前が何回も私に話した願いごとだが、行ってみるか、カナンへ。」
アブラムは驚いた。
こんな日が来るとは夢にも思わなかったからだ。
テラは言った、「ついては、お前の甥のロトも連れて行かねばならない。ハランが死んでしまって残されたロトを思うと私の心も重い。だからあいつが一緒なら・・・」
アブラムは喜んだ。
待った甲斐があった。
アブラムは妻のサライ、父と甥のロトと共に四人でユーフラテスに沿いながらウルを後にした。
旅の途中で宿泊したハランという町は何となくテラにとって居心地が良かった。
ウルに似て月神を拝む人々であり、広々とした土地は生活がし易かった。
テラは言った、「アブラムよ、此処も悪くないぞ。カナンもいいが、しばらく此処に住んでみよう。」
家長はテラである。
一家はそこに腰を落ち着けた。
数年後、テラが死んだ。
父を葬って数か月後、再びあの声がアブラムにあった。
「あなたはわたしが示す地に行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。」
アブラムは主がお告げになったとおり、ハランを後にし、カナンへと旅立った。
肥沃な三日月地帯のハランから左に大きくカーブを切って、約束の地を目指した。
(★因みにここまでの話を聖書は語っていない。私の想像の域である。)
なぜ、主はウルからアブラムというひとりの名もない男性を呼び出されたのか?
わからない。
わからなくて良いのである。
主が呼ばれたことだけ理解すればよい。
主が呼ばれたのはテラではなかった。
アブラムという普通の人だった。
だが、彼は単なる普通の人ではなかった。
アブラムは心に語られる主を信じる人だった。
だから主は彼を呼び出された。
イザヤ書51章は言う、「義を追い求める者、主を尋ね求める者よ、わたしに聞け。
あなた方の切り出された岩、掘り出された穴を見よ、あなた方の父アブラハムと、あなた方を産んだサラのことを考えてみよ。
わたしが彼ひとりを呼び出し、わたしが彼を祝福し、彼の子孫を増やしたことを。」
主はアブラハムを呼び出し、起こり得ないサラの胎にイサクを与えた。
アブラハムもサラも子供を孕める状態では無かったのに、主が与え給うた。
だから、モリヤの山でアブラハムはイサクを奉献することが出来た。
彼は「神のものは神に帰す」ことを知った人だった。
イサクからヤコブへ、ヤコブから12部族へ、神の嗣業は完成に向けて築かれた。
人に出来ずとも、主には出来るのである。
この生ける神こそ、この天地をおいてふたりといない。
「妙なる」と言う意味は「霊妙」である。
それは「人知では測り知れない程の素晴らしさ」ということらしい。
聖書の神、唯一生ける神は力強く霊妙なる存在。
その方のご計画と摂理を人間が測り知ることなど到底できない。
なぜなら神は永遠なるかたであり、人は時間の世界でしか生きられない。
その人間が永遠を想って生きる姿は切なく美しい。
イエスがベタニヤ村で流された涙はそのためだったのか。
人はやはり利己的で自己中心な生き物である。
人は明日を推し量ることは出来ても、それを確実に知り極めることは出来ない。
アブラハムと彼の末裔が絡んだ創世記のストーリーは、霊妙なる方の描いた傑作な実録である。
生々しい人間の営みは時に哀しく逞しく、闇があり希望があり、未来がある。
いうならば結果的に創造主の奏でる妙なる調べに合わせて人が踊っただけなのかも知れない。
だから創世記は永遠に人類に問い続ける。
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