■向こう岸へ渡ろう/マルコ4:35~41
或る日の夕方、イエスが弟子達を促された「さあ、向こう岸へ渡ろう!」
ガリラヤ湖のほとり、大勢の群衆を前にしてイエスは神の国を語っておられた。
舟のへりに腰掛けて話されていたが、イエスは急に何かを思い出されたようにいわれた。
弟子達は直ぐに何艘かの小舟に分乗し、イエスを乗せ漕ぎ出した。
湖の深みに漕ぎ出した頃、ガリラヤ湖が騒ぎ始めた。
海面よりも200メートル低い湖は思いがけないことが突然起こる。
熱くなった地中海の空気が入り込んだ湖上の空気と湖面の温度は相当な開きがある。
嵐が来たかのように突風が湖面に吹き渡り、波は逆立ち、小さい舟など木の葉の如くひっくり返されるだろう。
弟子達の顔は青ざめた。
バランスを崩して誰かが水に落ちそうになった。
5人くらいは乗っていたのだろうか。
弟子達は既に生きた心地がなかった。
ふと見ると、イエスは舟のともの方で寝ておられた。
弟子の誰かが叫んだ。
「先生、私達が溺れ死んでも何とも思わんのですか!」
あまりの恐怖で弟子達の顔はイエスに対して気色ばんだ。
これまでは、そのような顔をイエスに対して向けたことなどなかった。
すると、イエスは起き上がって風を叱りつけ、湖に「黙れ!」「沈まれ!」といわれた。
すると風はやみ、大なぎになった。
イエスは弟子達に言われた。
「どうして、そんなに怖がるのです?信仰がないのはどうしたことです?」
彼等は大きな恐怖に包まれ、互いに言った。
「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方だろう?」
クリスチャンになったということは、イエスの乗っておられる舟に、私達が乗ったという事だと思う。
これが一つ目の勘違い。
彼の舟ならば、彼が行きたいところへ、行きたいように連れて行かれても文句はない。
出発時間、行く先、空模様、色んな心配はみんなイエスがしてくれる筈だから。
しかし、実際はそうではないように思える。
乗せたのは私の舟(私の人世)であって、彼はあくまでお客でしかない。
お客なのだから、普段はおとなしくしてもらっておればよいのだ。
私が生きたい人生に乗ってもらっただけであって、必要な時だけ彼のアドバイスを貰えば良いのだ???
何かがおかしい? 変である、チグハグだ。
あれっ、もしかして舟(人生)はずっと私だけのものだと思っていた・・・
今までは・・・
だがそうではないのかと、今、気がついた。
だったら、早く言ってくれたら良かったのに。
いや、実は初めから彼の舟だったのだ。
二つ目は気づきの問題。
弟子達は間違いなく溺れ死ぬと思った。
だのに、イエスは眠っている・・本当はどっちでもよいではないか。
イエスが同じ舟に乗っておられるだけで問題ないのだ。
そこにイエスがおられる、それでよいのだ。
ここに主がおられる。
イエスが乗っておられるならば、そこはイエスの舟なのだ。
三つ目、弟子達は多くの奇跡を見て来たが、イエスを知り尽くしたわけではなかった。
癒し、赦し、解放、その程度か。
そしてイエスは自然界を制圧された。
『この方は初めに神とともにおられた。』ヨハネ福音書1章
彼は神である。
天と地を創られた創造主である。
造られた方だから、支配することが出来るのである。
そういう方なのである、彼は。
あなたは、私は、彼をどの程度知ったのだろう。
このスイカ大の頭で、あの偉大で宇宙を足場にされるような存在を理解しきることなど出来ないと悟らされた。
大きくても、中身はスイカの如く、スカスカでしかない私の頭。
主は御霊なる神。
向こう岸へ渡ろう!
彼こそが「水先人」なのだから。
それだけではない、人生の大嵐も大波も彼の御手の中なのだ。
いずれ私達は必ず死にゆくものである。
だから、今から彼にすべてを託す生き方を教えて貰いたい。
そうすれば、いざとなった時、あの弟子達の様に慌てふためくことは無い筈だ。
イエスが共におられる舟ならば、失うものなど何もない。
最高の水先人に出会えて感謝!