■キリストは我がすべて/ヨハネ14:16~27
イエスは言われた、「わたしが道であり、真理であり、命である。」ヨハネ14:6a
非常に有名な聖句、信仰に入った40年前から気に入っていた。
あれから何十年も経ってから考え直した、というより改めて聞かされたかのようだった。
そして思わぬことに気がついた。
イエスが言われたことは「わたしがあなた方に新しい道を教えよう。」ではない。
「わたしがあなたに真理を教えよう。」でもない。
「わたしがあなたに永遠の命への道を示そう。」でもない。
わたしが、このわたしが道である、真理である、命である、と言われていた。
ずっと前、イエスこそ素晴らしい宣教師だと思っていた。
神の国を分かり易く伝えてくれた。
たとえを用いて難解な神の国を説明され、どうしたら其処へ行けるのかを教えてくれたと考えていた。
何十年も、そう思っていた。
思い込みだったのか、読み間違ったのか。
彼が道!そうだよな、確かにそう言っている。
彼は案内書や手引書など用いない。
こ難しい説明などしていない。
条件も資格も問うてはいない。
「わたしに来なさい!」「わたしがそれだ!」と仰っている。
何かが弾けて飛んで行った、そんな思いがした。
私は何十年もキリスト教をしている。
だが、本当にキリスト教をしていただろうか?
もしかして、キリスト教という宗教であって、生きた信仰はしていなかったのかも知れない。
仮に、そこまでは言わないとしても、である。
何か大きな点が欠けていたと感じた。
ふと、思ったこと。
それはキリストとは「メシヤ」つまり救い主である。
ギリシャ語でなく、ヘブライ語で表現するとしたら「メシヤ教」になる。
何となく新興宗教っぽく感じる。
が、まさしくメシヤ教である。
慣れとは恐ろしいもので、考え直すと「キリスト教」とは「メシヤ教」なのである。
だが、大事なことは名称ではなく、どれだけイエス・キリストに拘っているかだ。
どれだけ、名前の意味に相応しい生き方が為されているかだ。
考えて見よう、あなたは他者を完全に赦して(受け入れて)いますか?
あなたは誰かれなく、公平に愛していますか?
仮に誰かがクリスチャンであろうと、なかろうとである。
日曜の朝、皆で朗誦する「主の祈り」。
そこでは「私が誰かを赦したから、主よ、私を赦してください。」と心を真っ白にして、主に告白しているだろうか?
赦していないのに、赦したと言っていないだろうか?
赦した振りなら、それは素振り(そぶり)でしかない。
生ける神の面前でそれは出来ないと思う。
そこで色んなことを振り返って見た。
キリスト教をしているのだから「善意、慈愛、忍耐、寛容」といった人として持つべきもの、クリスチャンらしい生き方、誰もが認めるような存在となりましょう、と言われてきた。
だからこそ、もしかして一番大切な方を脇に押しやって来たかも知れない。
そんな思いがした。
別に間違った生き方をしてきたというより、見なければならない方を、見過ごしてきたからかも知れない。
ヨハネ福音書は好きである。
ヨハネ独特のキリスト観を持っている。
心惹かれる言葉、聖句、主張はヨハネ色豊かに書かれている。
確かに共感福音書とは一線を画しているとは思って来た。
好きだけど少しは距離を置きたいなんてビミョウな書。
そこで偏見を捨てヨハネ福音書を一節ずつ、首っ引きで読んで考えてみた。
その結果、ヨハネは素晴らしいイエス観を持っていたと知らされた。
他の誰よりもヨハネはイエスを知っていた。
だから、私もヨハネのようにイエスを知りたいと思った。
イエス・キリストは「御子」という枠には到底収まらない方である。
彼は神であると告白せざるを得ない。
イエスは言われた。
わたしは門であり、世の光であり、いのちのパンであり、よみがえりであり、世の光であり、
良い牧者であり、葡萄の木である。
すべての呼び名は彼自身であって、「・・の様な者」ではないのである。
彼が「そのもの」なのである。
イエスはいわれた。
「わたしはあなた方にわたしの平安を上げよう。わたしが与える平安は世が与える平安ではない。」
どんな平安なのか?
それはイエスだけが与えられる平安である。
ならば、それはイエスご自身であって、他の何かではない、そう思った。
パウロが言った。
「・・・神は真実な方ですから、試練と共に脱出の道も備えて下さいます。」
有名な第1コリント10:13後半である。
2千年の間、数えきれない人々がこの聖句を愛唱し、慰めを受け、励まされて来た。
或る日私は考えた、脱出の道ってどんな道だろう。
その時になって見なければわからないのだろうか?
そして知らされた、そうだ、脱出の道とはイエス・キリストであると。
キリストこそが、試練から、困難から、赦せない心から脱出の道である。