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■たかが教会、されど教会、だから教会/マルコ2:1~12

33歳でクリスチャンとなり、教会へ通い始めた。

いわゆる熱心な教会通いとは思わなかったが、欠勤することだけはしなかった。

行き出したら行くがモットーなのか癖なのか分からない。

あれほど嫌だった教会へ初めて自分の足と気持ちで踏み入れたのが、つい何日か前のクリスマスの夜だった。

そして、あっと言う間に心変わりした。

(よし新年の礼拝から、日曜朝は家族で礼拝に座ろう。)

固い決心は・・堰を切ったように変わった。

礼拝は行くけどクリスチャンにはなりたくないし、決してならない。

決心通りに心は塞いでいた。

だから、何にも入って来なかった。

二か月半までは。

3月12日の朝、イエスに捉まった。

いとも容易く・・・なんだよ、これって・・・

人の心とは各も弱いものなのか。

あの固い決心など何だったのか。

だが、まことの神は生きておられるのだ。

それから、あっと言う間に二年の月日が流れた頃。

或る意味、正義感ギラギラの新米にとって憂鬱な時間が始まった。

教会の人達の人間臭さが妙に鼻につき、腹が立って仕方なかった。

神さま、神さまと言いながら聖書に従おうとしない人たちの言動が、ついつい目に入ってしまうのである。

嫌でも見えてしまうのである。

勿論、自分自身だって大した差の無いことくらい、自覚はしていた。

思わず祈ったのは「イエスさま、どうしてこんな煩わしい教会を造ったのですか?」

「主よ、変えてください。教会を変えてください。」

返答?なかった。

何でもいいから、主の感想を聞きたかった。

当時、そういう祈りは少なくなかった。

やがて一歩退いて考える。

どうせ「たかが教会」ではないか、自分だけ理想という眼鏡を掛けて、人を見ることは良くない。

すると多少楽になった。

人間、決して誰一人完全ではない。

弱さも罪も、自己中心も持っているものだ。

そういう人間をイエスは束ねてくれて、教会を建てて下さった。

初期のイエスの教会だって酷いものだった。

聖霊降臨後の弟子達にせよ、時として目もあてられないものだった。

パウロとバルナバなど激しく反目しあった(使徒15章)。

しかし、その弱さの中にこそ、主は働いて下さるのだから(第二コリント11章、12章)。

ああ、「されど教会」なんだなぁ。

弱さ、醜さ、おぞましさ、これほど欠けだらけの人間達を、主は神の子として下さった。

考えれば考える程にイエスの愛の深さを思い知る。

その頃の二、三年という時間の経過は短くは無かったが、主はずっと忍耐しておられた。

そして思いがけなく、イエスは私の心に語り掛けてくださった。

『わたしは、こういう煩わしい教会を通して、あなたを煉り直す。』

正直、あまり嬉しい御返事では無かったが、意味は噛み締めた。

私のために教会を変えるのではなく、私を変える・・・それが御心。

それから数年後、私は生まれて初めての弟子訓練に出会った。

あのとき、主が語られた約束「あなたを煉り直す」が今、始まったのだ、と思った。

教会は常に不完全だ。

絶えず新しい人たちが加わるのだから当然ではある。

かといって時間や経験が信仰者を育てるのではない。

私の様に腐った根性の持ち主だって少なくない。

皆、それぞれの本性なんて容易く変わりはしない。

仮にこんな教会だとしても、イエスは絶対に揺るぎなく群れの『頭』(かしら)なのである。

名前だけの「キリスト教会」の様に思えたにせよ、主は教会を愛しておられる。

『だから教会』とはキリストが素晴らしいのであって、教会員が素晴らしいからではない。

そう思ったら、何となく教会が愛おしくさえも思えて来た。

見上げるべき方は此の肉の目では見られない。

霊眼でしか見られない。

主を信じる心の眼でしか見られない。

まことの礼拝とは、礼拝奉仕をする人々や説教者を見るのではなく、見えないイエスを見て行く礼拝だと思う。

だから会衆とて然り、『見えない方に出会う礼拝』を意識しなければ。

一週間をどう生きたかは、自ずと主の日の自分に現れる。

どれだけ頑張ったかではなく、イエスの前にどれだけ「恵みと赦しの受け身」で生きたかだ。

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