■汝、殺すなかれ/出エジプト10:13~15
十戒の6番目、ヘブル語聖書の英訳文がこう書いている
『You shall not murder』 (あなたは(絶対に)殺してはならない義務を負うている)
SHALLは非常に強く重たい言葉である。
原義としては義務、負うという意味である。
命令文でこの様に強調する言葉だが、疑問文に使われるとどうなるか?
例えばShall I・・・と聞けば、「私は○○○することが出来るでしょうか?」であり、
Shall We・・・と言えば、「私達は○○○出来ますか?」ともなる。
「言葉」とは各も場所と環境、応用と適用、表現と言い回しによって千差万別に使い分けられる。
十戒7番目、「あなたは姦淫してはならない。」
昔、教会学校の教師をしていた頃、小学3年生と4年生の子供達25名程を受け持った。
手に負えないヤンチャな子もいれば、おとなしい子もいる。
十戒を子供たちに教えていた時、黒板に「姦淫」と漢字で書いて、グルリと皆の顔を見回した。
「この字の意味、何でしょう?」と聞いたら、的確な答えは無かったが、その表情から
は文字の「意味」は大体において汲み取っていた。
そう、女という字を三つ並べると大いに問題ありと感じたのだろう。
私達の神は唯一生ける神、生きておられる主である。
人が造った像であれば、生きてはいない。
Aiを内蔵した犬でも人でも命は無い、生きてはいない。
日本人が好きな木像。
初めから死んでいる、息をしない彫刻像でしかない。
仮にどれほど有名な彫刻師が彫った仏像であるとしても、単なる木像である。
そこにどうしたって入魂など出来ようもない。
命など入れようがない。
初めから生きていないからだ。
偶像は神ではない。
人間が神の場所を偶像に与えただけなのである。
人が背負ってあげなければ動くことさえ出来ない神に何が出来るのか。
だが、世の人々は神々しい眼差しでそれを見つめ、その前で合掌し頭を垂れる。
その瞬間、彫刻物は礼拝の対象物になった。
だが、神にはなれない。
偶像になっただけである。
人間が勘違いしているだけなのである。
初めから死んでいる偶像は「汝、殺すなかれ」などと言わないし、言えない。
自分が生きていないのだから意志など毛頭ない。
イスラエル民族の上におられる方は御霊の神であり、ヤハウェと呼ばれ、生ける神である。
イスラエルが主を神としたのではなく、神がイスラエルを生み、背負ったのである。
イスラエルはヤハウェだけを神とすべく、そのためにだけ選ばれた民族だった。
そのイスラエルがモーセを介して聞いた言葉は「あなたには、わたしの他に、他の神々(偶像)があってはならない。」(十戒の1番目)であった。
だが、イスラエルはカナンの地の人々に倣って、かの地の偶像に心を寄せた。
それらは五穀豊穣、子沢山を象徴する男神、女神であり、形を持っていた。
人々はその像の前でいかがわしい行為を行い、神々に捧げていた。
イスラエルは心を魅了され、同じように行った。
そのとき、生ける神は「あなた方はわたしに対して姦淫を犯したのだ。」といわれた。
姦淫とは何も人間同士のadulteryを指すのではない。
まことの神以外に心移すこと、魅了されること、奪われること、惹かれることであり、たとえその対象が物であろうと、人であろうと、動物であろうと、家、金、自然界であろうと、姦淫を犯したことになるのである。
昔、私が聖書の神を信じると告白して三日目、とりあえず新約聖書を読み始めた。
なにしろ創世記アブラハムのイサク奉献記事しか知らない時間帯だった。
マタイ福音書にこういう箇所があった。
「姦淫してはならない、というのをあなた方は聞いています。
しかし、わたし(イエス)はあなた方にいう。
誰でも、情欲を抱いて女を見る者は、既に心の中で姦淫を犯したのです。」5章27~28節
思わず愕然とした。
十戒は「You shall not commit adaultry」とある。
だがイエスは、人は「心の中」で思ったにせよ、あなたは「姦淫を犯した。」といわれた。
思わずイエスに反論した。
「心の内だけでも姦淫を犯したとするなら、真実正しい人がこの世にいるのですか?」
先ず、いない・・・。
十戒よりもはるかに厳しい。
イエスの厳しさに触れた時、私は彼の十字架とつながった。
このために、この者の罪のために・・・彼の死は私の為だった。
思い起こせば私自身、人によって導かれた体験はなかった。
人によって罪を知らされた体験もなかった。
人によって神学校へ行ったのでもなかった。
人の勧めで牧師になったのでもなかった。
ただ、主によって、イエスによって導かれた。
言い換えればそれだけ偏狭で偏屈な人間だからであろう。
あの狡猾でのっぴきならないヤコブを背負った方はヤハウェである。
ヤコブ12部族とその末裔を嗣業としたのはヤハウェである。
イスラエルがあるのは、彼らを生み、育て、養ったYHWEがおられたからだ。
改めて思う、私は本当に幸せ者だった。
人の言葉には耳も心も貸さない人間だけど、ヤハウェである御霊の神はいつも私の魂と心に語り続けて来られた。
逃げても離れても主イエスはずっと私を背負っておられた。