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■十戒とキリスト/出エジプト20:1~4

本来、聖書が教える神は漢字が現す意味の「神」ではない。

日本語に訳したからそ、うなっただけである。

ヘブル語ではYHWEヤハウェと呼ばれた方。

モーセがエジプトに派遣された際、彼は主に問うた。

もしエジプト人が「お前が言う主とは何ものだ?」と聞かれたら何と答えましょうか?

主は仰せられた「わたしは在って有るもの」と言いなさい。

当時、私にとって、この呼び方は非常に意味があると思ったし、今だからこそ更に思う。

日本には神々が800万もあるそうだ。

だから、「八百万」と書いてヤオロズと読む。

日本人は世界でも名だたる「神作りの名人」かも知れない。

約40年前、クリスチャンになって間もない私なのに、当時通っていた小さな教会は、

私を教会学校の教師にしてしまった。

任せるほうも受けるほうも考え物ではあるが、何せ人手不足だったから他に策がなかったのだ。

四月第一の日曜日、テキストは「ヤオロズの神々」についてであった。

その朝、イエスは私の心に語られた。

「この幼い子供達に唯一、まことの生ける神を教えなさい。」

あの朝、私はこの生涯を通して働くべき方向性を導かれた思いがした。

十戒の冒頭、「あなたには、わたしの他に他の神々があってはならない。」

これが律法の第一番目である。

英語で言えばショッパナから「You shall not !」という非常に強い否定形である。

主の選民イスラエル人達が、仮にカナン地方の偶像を拝んだとしたら、彼らは主に対する大罪「姦淫」を犯した重罪人とされた。

聖書は幾度も言う、「あなた方は姦淫の民である」と。

それに比べたら私達日本人で姦淫を犯さなかった人は一人もいない。

否、世界中の人を見まわしても、みんな罪びとである。

私とてそういう環境に生まれて、幼い時から日々姦淫の罪びとであった。

但し、他の人と同じように、自分にもそういう意識など全くなかった。

クリスチャンになって初めて、「わたしの他にカミはいない」と語られる方に気づかされた。

それ以来、普通に唯一の主だけが神であるとして生きていた。

しかし、目に見える偶像は見分けられても心の中は別物だった。

建前は聖書の主のみであっても、本音は「私自身」が神であった。

頭では主を信じるも、心の中は「私が主」という生き方は難しい様であっても実は難しくはなかった。

人間とはそういうものであることを、判別される体験をしたことがなかったからだ。

人間とは実に器用な生き物だ。

パウロの言った様に、「私はキリストと共に十字架で死んだのです。」と言えない理由はここにある。

死んでないのに、死んだとはさすがに言えないものだ。

というわけで、ガラテヤ2:20は避けて通りたい時が多々ある。

私が神学校へ生き始めた頃だったか、娘にボーイフレンドが出来た。

成人式をしたのだから、当然と言えば当然である。

ボーイフレンドは気が優しく思いやりがあり、真面目で柔和でハンサムだった。

私が彼を受け入れられなかったのは、彼がアフリカ系アメリカ人だったからだ。

それまで人種差別意識など自分には皆無と思っていた。

それが急にムクムクと妙な差別意識が見え始めた。

多分、娘の結婚相手になるかも知れないと思ってからは、更に強い抵抗感が芽生えた。

それから四年後の1993年四月、中田厚仁さんという25歳の青年がカンボジアの再建支援に関するボランティアとして日本国から派遣されていた或る日、何者かに銃撃され惨殺された。事件は非常に大きな騒ぎとなった。

「暫定統治機構」UNTACが実施した公正な選挙を実施すべく、選挙管理人のひとりとして走り回り、現地の人々にも厚く信用されたのが中田さんだった。

軍人では無く文民部門で働く立場であったが、その死は実に残虐で無念だった。

遠い東南アジア、たった一つの国を想う一員として、カンボジアの民衆主義国家設立のために、結果として命を捧げた尊くて若い魂には、素晴らしい未来があったと思う。

考えれば考える程に残念な死に方だったが、ご自分で選んだわけではない。

「I’m dying・・」(私はもうすぐ死ぬ)救援を要請した無線から聞こえた最後の声がそれだった。

彼は死ぬために行ったわけでは無い。

カンボジアと国民を愛した故の渡航だった。

「私にできることなら、なんでもして差しあげたい・・」

決して自己愛と名声の為ではなかった。

『時』が私の心に覆いかぶさって、自分の内側の『狭くて浅はかな自己中心』をジクジクと思い知らされた。

神学校4年生の時だった。

主なるキリストに仕えるべく、学んでいた目的はいずこの国びとであれ、生きる魂に仕えるためだった。

皮膚の色を除けば、どこの国びとも同じ肉であり、同じ内蔵器官をもつ。

ましてや皮膚は神が与え給うた贈り物である。

ひとは皮膚によってすべてから守られ生きている。

与えられた色自体にも神の意図があるだろう。

決められたのは神であって人間ではない。

その神がいわれる。

「あなたにはわたしの他に、他の神々があってはならない。」

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