■新しい葡萄酒と古い皮袋/ルカ5:27~39
『誰でも新しい葡萄酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。
そんなことをすれば、新しい葡萄酒は皮袋を張り裂き、葡萄酒は流れ出て、皮袋も駄目になってしまいます。』ルカの福音書5:37
新しい葡萄酒の発酵力は凄まじい。
酵母菌の激しい活動に対して古い皮袋は耐えることが出来ない。
(因みに人類は酵母菌の力ある活動を様々、益となる方向に役立てたのである。)
この譬え話は、新しい考え方はそもそも人間自体が変わって行かないと理解することは出来ないということであろう。
いつまでも今まで通りの古い生き方、考え方では対応は出来ませんよ、という警告なのでだ。
今日2017年11月12日、礼拝の中で小学生とそれ以下の子供達に対して「子供祝福式」を行うことが出来た。
可愛い子供たちの顔をみながらふと考えたものだ。
この子たちも実際は古い皮袋なのだろうか?
そう思いたくなくても、事実はそうなのである。
やがて子供達はイエスに出会って、自分の罪を示され、新しい皮袋に変えられねばならない。
神のことば、キリストの言葉は常に新しいのである。
引き換えて、人間はいつの時代も古い皮袋のままなのである。
ひとは大人でも子供でも、イエスに出会わねば所詮古い皮袋でしかない。
旧約聖書は果てしなく遠い昔のお話だと錯覚しているのは、人間達である。
現代の私達よりも、神に向かう彼等の姿勢は、新しい皮袋であったと思う。
人間はすべて古い皮袋で生まれて来て、神に出会って新しい皮袋になる。
つまり、人間はすべて皆、古い皮袋であり、神は永遠の昔から常に新しいのである。
だから、神の言葉を読んだり、聞いたりする時には、私達は開かれた心と目で向かう必要がある。
この話が出てきた理由は、収税人レビの前にイエスが通りかかったことが始まりだった。
イエスはレビに目を留めて、「わたしについて来なさい。」と言われ、彼は何もかも捨ててイエスに従った。(ルカ5:28節)
その日、レビはイエスを自分の家に案内し、大盤振る舞いでもてなした。
レビと言う名は12部族の三番目に出くる名であり、祭司家系に属していた。
だがレビはユダヤ人の忌み嫌う徴税人なっていたのである。
名誉ある仕事、ヤハウェの唇となって、神と民に仕えるべく取り分けられた昔であった。
イエスがレビを見て、彼の持っている特殊な可能性に目を留められ、マタイ(神の賜物)という名で呼んだ可能性がある。
そしてレビはやがて間もなく「マタイの福音書」をまとめ上げた。
彼はキリスト者になって文字通り、「新約のレビびと」になった、アーメン!
レビがイエスに出会った日、家族や親族、友人を招いたことであろう。
レビは本当に嬉しかったのである。
果たして私達はレビの様な態度を示したであろうか?
自分がクリスチャンになったことを誰にも言わず、ひっそりとしまっていなかっただろうか。
あの時代、堂々と大胆にイエスを自宅に招いたこと自体、並の心では果たせなかったであろう。
ひと目、ひとの口、ひとの見方があった。
その場には律法学者やパリサイびとがいて、彼らは呟いた。
「なぜ、イエスや弟子達は取税人や罪びとどもと一緒に飲み食いするのだろう?」
イエスは彼らに答えていわれた。
「わたしは正しい人を招くためではなく、罪びとを招いて悔い改めさせる為に来たのです。」
レビとてやはり古い皮袋の人だった。
だが、彼はイエスを見て神に立ち返った。
「この方は普通の人間ではない。」
取税人達は仕事柄、限りなく大勢の人間を見て来たであろう。
ザアカイとて然り、レビもイエスを見抜いたのである。
いったいこの世で罪なきひとなど居るのだろうか?
残念であるが、いない。
だから私たちはそういう体験を仕様が無い。
私の解釈であるが、イエスの言葉にある「正しい人たちを・・」とは『自分を正しいとする人たち』とも取れる。
もし、イエスに出会ったら、人は自ずと己が罪を悟らされると思う。
パリサイびと達はイエスを見ても、何一つ悟ることは出来なかった。
それは彼らが「自分は正しい」という固定観念と、宗教に対しても揺るがない信念の塊だったからである。
古い皮袋は何処まで行っても古い皮袋なのだろうか?
かも知れない。
だからこそ、ヤハウェは新しい葡萄酒を「この世」に注ぎ込まれたのだと思う。
人間界に大きなショックと改革の兆しを持ち込まれたのは、キリストという神である。
キリストは今も尚、人類に向かってチャレンジしておられる。
新しい皮袋となるように。