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■わたしを知る者が父を知る/マタイ4:17~21

イエスの宣教第一声、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

悔い改めるとは、「立ち返ること」である。

立ち返るとは「帰る、戻る」である。

どこへ戻るのか?

どこへ帰るのか?

ルカ15章の放蕩息子は「父の家」であり「神の下」だった。

一番初めに居たところ、または本来居るべきところである。

私達にとっての其処は「創造主」の懐だ。

人間は神の被造物であるのだから、神の御そばこそが私達の生きるべき場所である。

つまり、人間は神から離れていては、どこまで行っても、何をしても的外れの道、場所、人生にある、ということ。

神から離れてしまった人間は何処へ行ったのか。

それは「自分が良いと思う生き方」の出来る空間である。

そこは「神不在」のところではなく、自分中心に生きる世界である。

神は普遍なるお方、どこにでも臨在され給う方である。

本当は神不在の場所など無い。

人間の方から唯一まことの神を離れたのであって、主を捨てたのである。

イエスはそういう人間を見つけて救うために来られた主である。

ヨハネ14章でイエスがいわれた。

「わたしを見た者は父を見たのです。」

この言葉は父とイエスの関係を非常に分かり易く語っている。

イエスは父とまったく同質、同一、であるということ。

父と子という立場は、あくまで人間が理解し易いように、神が位置づけられたものである。

父、子の関係を御霊という本質性において見るなら、それは端なる位格に過ぎず、常に「おひとり」(唯一神)であるということである。

「御霊なる神」であるから、ご自身を「われわれ」と複数で呼ばれても全く違和感はない。

イエスの公生涯の始まり、最初は「弟子」を見つけることだった。

ガリラヤ湖の畔を歩いておられた。

それは散歩でもウォーキングでもない。

弟子を見つけることだった。

ペテロ、アンデレの兄弟は湖で網を打っていた。

ヤコブとヨハネは父と共に舟の中で網を繕っていた。

彼ら漁師に向かって主は声を掛けられた。

「わたしについて来なさい、あなた方を、人間を漁る(すなどる)漁師にしてあげよう。」

彼等は父と舟、網も捨ててイエスについて行った。

私がふと考えてしまう場面である。

なぜ彼らはスイスイと(と、見える)ついて行くことが出来たのか?

或る意味、親放棄、職場放棄、家族放棄である。

両家の長男次男がイエスについて行ってしまった。

なぜ、いとも簡単にそんなことが出来たのか?

現代の私達クリスチャンなど何十年も信仰の取り組みをしていても、いまだに出家信者に成れずにいる・・・。

彼等はイエスの風貌と容姿を見たから、ついて行った、とも考えられる。

だが、それまでは際立った信仰もない、特別な学歴もない普通の壮年の漁師である。

イエスには一点の穢れも罪もなかった。

すべての人間には多くの罪がある。

幾ら容姿が美しくスタイルが良くても、品行方正でも人間には罪がある。

罪のない顔とは?

私達には分からないことだ。

なぜならすべての人間には罪があるからだ。

しかしペテロ達は「イエスを見た」ので、まるで引き寄せられるように立ち上がった。

彼等は3年の間、イエスと一緒に生きたが「イエスの真の目的と本質」だけは悟れなかった。

しかし、主が殺されてよみがえり、その50日後に舞台の幕が上がるように明らかにされて行った。

それは人間の行動と思惑に一切よらず、ただ神によって引き上げられた「まるで緞帳の如く」であった。

イエスを知るなら父を知る。

それが新約聖書の約束だ。

イエスの宣言であり約束である。

イエス・キリストという名ではなく、彼ご自身を知ることだ。

イエスの本質、御性質、人間性、神性、つまりイエスその方を知るということ。

頭で、心で、魂で、霊性で彼を知り、彼と生きる!

『彼に死ぬとき、人は彼と生き、彼と暮らす。』

ガラテヤ2:20

「私はキリストと共に十字架に死んだ。今、私が主と生きるは、主と共に死んだからだ。」

以上を逆説的に言うとしたら、イエスを知らない者は神を知らない、ということになる。

イエスは神の国を人間に伝えるためだけに来られたのではない。

「神ご自身を人に知らしめる」ために来られた神である。

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