■「神の限界?」 / マタイ9:27~31
祈りの限界 全能の神、この方が私たちの神です。と、言ってもいろいろな神さまがいる中で、私たちが聖書の神を信じた、のではありません。全知全能、文字通り、神はイエス・キリストの父である、創造主です。ところで、あなたが今、またはこれまでに神と信じた、または神と信じたい、と思われた神はどのような神でしたか?例えば、学問、入試、入社、安産、魔よけ、五穀豊穣と言ったその道のスペシャリティだったのでしょうか? マタイの福音書にでてくる盲人は、通りかかったイエスに向かって叫び続けました。「ダビデの子よ、私たちを憐れみたまえ!」。彼らにとって「イエスは不可能のない方」つまり、全能の主だったのです。そして私たちはそういう場所で祈っているでしょうか?
わたしにそんなことが出来ると思うのか? イエスは叫びつづける盲人の声を聞かれ、彼らに対し問われます。「あなた方の目を開ける、というようなことが出来ると思うのか」。 イエスの問いかけは、私たちの祈りに対しても同様ですが、その問いに比べると私たちの祈りは何とせまく浅い、と思われませんか?私たちにとって勿論切実で悲痛な叫びでもあるのですが。家族の救い、病の癒し・・・。 しかし、盲人たちがイエスに向かい合っている願いは、絶対不可能な問題でした。ここに祈りの範囲と可能性、有限、無限という領域が出現します。私がクリスチャンになる以前は、キリストを拒み、神を恐れない者でした。そんな私のために心から祈っていた宣教師がおりました。私がイエスを信じた時、彼が一番喜んだそうです。仮に私とて同じでしょう。しかし、16年後、キリストによって私が牧師にまでさせられたことは、彼にとって考えにも及ばないことだったと思います。勿論、私であっても同じです。そして、それが人間なのです。しかし、盲人達は彼らの限界ではなく、「神の無限に踏み込んだ願い」をしたのです。それは、仮に今は可能性なきも、絶望の暗闇でも、「光あれ!」と叫ばれる神がおられると信じるなら、そこに光があるのです。祈る姿勢と心に私の限界、またはせいぜい僅かなプラスでしかないものではなく、「神の無限」に賭けて祈る、踏み込んで祈る、求める、叫ぶような生き方をすべきではないでしょうか。
「あなたがたの信仰のとおりになれ」と主は言われました。生まれつき目の見えない二人、彼らは信じたとおりに癒されました。私はここに、神さまはいつも私たちに必ず答えてくださっているなあ、と信じられるきっかけを見つけることができました。主は二つの点を私に教えて下さいました。主のお答えの一つ、それは「もう少し、わたしの時を待ちなさい」です。そしてもう一つの答えは「既に、あなたが信じて祈ったとおりになっているよ」です。いかがでしょう。主はちゃんと答えておられるのではないでしょうか。