■私たちを見なさい/使徒3:1~16
イエスが伝道を開始された初期の頃、初めてペテロに出会われた瞬間、彼の目をじっと見て言われた。
「ヨハネの子、シモン、わたしはあなたをペテロ(岩)と呼ぶ。」
岩は何年経っても岩であって、砂ではない。
イエスはペテロの未来人間性像と、その内面を見通されたのである。
確かに初期の岩(ペテロ)は何とも弱かった。
強いのは人間的な面だけだった。
しかし、イエスは彼の未来の人間性と信仰を見ておられた。
ペテロは早とちりで、そそっかしい部分があり、舞い上がる点もあったが、決して嘘はつかなかった。
つまり二枚舌ではなかった。
一枚岩だったのである。
やがて集まった12弟子の筆頭はやはりペテロだった。
いつの頃からか彼はイエスに対し、自らにおいて忠誠を誓っていた。
愛すべきペテロ、あなたこそメシヤなるキリストにぞっこん惚れられた、弟子の中の弟子である。
何かにつけ、主はペテロに一目置かれた。
それはペテロの責任感、裏表のないリーダー性を見ておられたからか。
主は同じように今の私達だけでなく、私達の将来像を見ていてくださる。
神を信じることにおいて動じない、イエスと生きることにおいてぶれない、そして人は変えられる。
過去こそ、ぶれて、流されたにせよ、やがてはそうでは無いのだ。
何が私達を変えたのか。
変えた方は神である。
確かに人は失敗、失態、恥を掻かされて変わることが少なくないであろう。
しかし、人生の底辺でキリストに出会わずして人は変わり様がない。
ペテロは無学であった。
ガリラヤの田舎で魚を漁る男に学問は必要なかったであろう。
漁師に律法やギリシャ語は必要なかったであろう。
だが、神は彼を「人間をとる漁師」にされた。
ペテロはイエスとなら、いつでもどこへでも行ったし、主と一緒なら死ぬことさえ厭わない、と勇んだ。
「恩寵の弟子」とペテロは後世のキリスト者から言われた。
神の恵みと愛なくしてペテロの人生に弟子の道はなかった。
同じ様に、キリストと一緒なら私達でさえ、この人生に花も咲く。
凡そ人間が価値とするものを神は見ておられない。
力より知恵、豪気より勇気、魂の強さより霊性の鋭さ。
金より気高さ、権力より謙遜、豊かさは財よりも神への信仰。
ペテロが一生の不覚を体験したのは真っ暗闇の中、チロチロ燃える不安定な焚火の灯りだった。
屋敷内では捕らわれたイエスが取り調べを受けていた。
イエスを案じるペテロは不安げながら、何食わぬ顔をして家の人々と共に焚火で暖をとっていた。
すると、いきなり家の女中が彼の顔を見て言ったのだ。
「お前さん、あのナザレのイエスと一緒にいたよね?」
彼は必死に首を振って言った「知らねえ、俺はイエスなんて知らねえよ。」
(心中は必死だった。俺を見るな、俺を見るなって。)
だが、彼のガリラヤ訛りは嘘をつかなかった。
吊られて他の男が焚火の中でペテロの顔を覗き込んだ。
「いいや、確かにお前はイエスの弟子だ。」
こうしてペテロは三度、イエスを否定した。
暗闇の向こうで一番鶏が鳴いた。
ペテロは焚火の輪から飛び出し、暗がりの中へ走って行って消えた。
そして彼は号泣した。
果たして私達はそんな経験を持たないだろうか。
日曜とウィークデイの自分の顔が違うように感じる。
教会と職場の顔。
何故、違ってしまうのだろう。
自分ではわかっていても、逃げられないし、変えられない。
人生で何とも窮屈な場面を幾度、行ったり来たりしたのだろう。
あの晩から僅かに二か月足らず。
パテロはヨハネと共に宮に居た。
目の前には生まれつき足の効かない男が人々に金をせがんでいた。
男はペテロとヨハネの顔を見上げた。
そのとき、ペテロが男に言った。
「私達を見なさい!」
男は期待した。(このひとはきっと金をくれる)
ペテロは男に言った、「私には金銀は無い。私にあるものを上げよう!ナザレのイエスの名によって歩きなさい!」
「私を見て!」と、どのキリスト者が言うだろう。
「私にあるものを上げよう」と、どこのキリスト者が言うだろう。
イエスは彼自身を供給されるためにこの世に来られたのだ。
私達はイエスを人々に分かち合うために救われたのである。
彼は私の中だけにおられる方ではない。