■死ぬも生きるもキリストと/コロサイ3:1~10
私は自由です、とは何をもって自由と言うのだろう?
何でも出来る、何でも言える、遊ぶことも楽しむことも何だって。
昔は、これが自由だと思っていた。
しかし、聖書において真の自由を学んだ。
そして理解した。
あれは自由ではなく、端に自由を取り違えた罪の結果であったと。
勇気とは、恐れず前に進み、弱気などしまいこみ、命さえ賭けて戦う。
と、昔は思っていた。
しかし、神の前においては違っていた。
真の勇気とは、先ずキリストに導きをゆだね、神の前にへりくだって生きることだと。
クリスチャンにとって大事なことは幾つもある。
だが、一番大事なことは、イエスと自分の関係を聖書からはっきり知ることだと思う。
自分の感じ?考え?惰性?経験?すべてNO!である。
生きるはキリスト、死ぬこともまた益である、とパウロは言った。
ここで言う死とは、いわゆる肉体が死に行くことである。
だが、その前に考えるべき大切な死がクリスチャンにはあるのだ。
それはキリスト信じた時に、古い私は十字架でキリストと共に死んだという死である。
だから今は新しい霊性によって生き、新生した者なのだ。
キリストがよみがえられた様に、私達もキリストと共に新しいいのちに生きるのである。
新しくされたことは自覚できたが、残念ながら「古い自分が死んだ」という点を認識していなかった。
まあ、取り敢えずは生きている内に気がついたから良しではあるが、随分時間を無駄にしたような感は否めない。
新生とは魂によって生きるのでなく、霊性、つまりキリストのいのちに生かされるのである。
頑張って人生を生きるというより、キリストに生き、キリストと生きるのである。
自分を信じることより、彼を信じるのである。
自分に信頼するのでなく、キリストに信頼して生きるのだ。
「私はキリストと共に十字架につけられました。」とパウロはガラテヤ人の手紙2:20で言った。
いつかは私もそういう心境になって、パウロと同じ告白ができたらいいのにと思っていた。
いやあ、パウロは凄いよね。
彼は、自分は十字架で死んだ、とまで言い切ったのだから。
他人事の様に考えていたが、実は我が心、我が魂の死は39年前だったとは・・
あれから40年間、そんなメッセイジ、聞いたかなぁ。。。
いや、聞いた思いがしないなあ。
「あなた方は既に死んでおり、あなた方のいのちは、キリストと共に、神のうちに隠されてあるからです。」(コロサイびとへの手紙3:3)
キリストを信じたとき、「既に死んだ」ことを受け入れないで来てしまったかも知れない。
「・・かも」は確かに大問題だが、或る意味勇気をもって過去を振り返ることは必要だ。
そういえば、信じて救われて4カ月もした時、あのショッキングだがフレッシュでドキドキする時間は、やがて潮が引くように去って行き、何となくしらけた時間が戻っていた。
その後はキリストに委ねきれないことも、信頼しきれないことも、我が魂の力と我が本性の変わらぬ強さの下で、耐える、我慢する、抑える思いでクリスチャンをやっていた思いはする。
それでも自分を騙し騙し、いや周囲を騙して生きていたのかと思う。
だが、キリストは騙せない。
死んでいたのに、死を悟っていなかったとは、今となっては恥ずかしいことなのだ。
聞きたかったなぁ、そういう自分を悟らせてくれるメッセイジを。
誰かのせいにしたいものだ、出来るなら。
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
この人々は血によってでもなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」ヨハネ福音書1:12~13
私の大好きな聖句であり、ここから幾つもの魂が導かれ、救われたのであるが・・・
「・・神によって生まれた」という宣言が認識というレベルに落ち着いてしまい、実のところ、死んだからこそ生まれたという確信に至っていなかったとしたら・・・
大変なことである。
私はイエスに躓いていたのだろうか?
それとも、教会も牧師も疎かったのか。
イエスを心と人生にお迎えしたのに、どうしてもキリストを私の真ん中に迎えられず、玄関先か門の所で待っていてもらっている程度とすれば何とも情けない。
パウロの嘆く声が聞こえて来るようだ。
「あなた方のことを、どうしたらよいかと困っているのです。」ガラテヤ4:20
私だってどうしたらいいか迷っているのに。
折角イエスを信じてクリスチャン人生を歩いていると思ったのに、ガラテヤ人達は昔に戻っていた。
古いしきたりや、古い教えに戻ってしまった。
「神の子どもたちよ、あなた方のうちにキリストが形づくられるまで、私は再び、あなた方のために産みの苦しみをしています。」ガラテヤ4:19
昔も今も変わらぬ事が起こっている。
果たして彼らよりはましなのか。
だが、まだ間に合う。
決して遅くない。
時間は戻らずとも、主と主の言葉に戻ることは可能である。
ひたすら、キリストを見上げ、彼と生きよう。
「今、私が生きているのは、神を信じる信仰による。」ガラテヤ2:20