■いつか誰かも歩んだ道/創世記13:1~11
神はご自身の計画を達成するために地上の人々を選ばれる。
例えばイエスを生まれさせるためにヨセフとマリヤという特別な二人を必要とされた。
神の条件は幾つもあったから特別と思った次第である。
先ず、イエスの父となるヨセフはダビデ王の末裔であること。
彼はヤハウェなる神を信じる人であり、真摯で正しく思いやりのある人。
一方マリヤは神を畏れ、清純な処女であること。
二人はいいなずけ関係、つまり婚約中であること。
そしてどんな事態が訪れようと、最終的には神の御声に従う者であること。
この様に幾重もの条件をクリヤーする二人こそ、神が長い間待っておられたカップルだった。
人類の祝福の父、アブラハムはどうであったろうか。
神の目に適った人であったと言うより、召しの中で神が彼を変えられたと思える人だった。
アブラハムは普通の人であって、ある意味普通の人ではなかった。
彼が普通でない理由は、彼が神の前から絶対逃げない人だったということと、人生のどこかで神の側に鋭く舵をきることを決断することだった。
アブラハムは年を経ても、後継ぎが出来なくてもじっと諦めずに待った。
自分の身体が死んだも同然であったにせよ、彼ははるか彼方に希望の灯を持ち続けた。
アブラハムという人は、時間を掛け神によって鍛えられ、神によって練られた結果の器だったと思う。
初めてカナンの地に足を踏み入れたアブラハムは何故か落ち着かなかった。
「この地をあなたにあげよう」と神に言われたのに何を考えたのか、更に南へと歩を進め、遂にはエジプトへ行った。
そこは「この世」を象徴する、まさに人間にとって魅力満載の誘惑的な都市だった。
カナンの渇いた荒野のような地と比較すれば、堪らなく愛おしく感じたところであったろうか。
今この時、別の誰もが求める場所だったかもしれない。
しかしエジプトはアブラハムに与えられた土地ではない。
間もなく彼はその地で大失態をしたが、神は彼の尻拭いをされた。
アブラハムは再びカナンを目指し、エジプトを後にした。
思えば私達にせよ、幾度も幾度も神に尻拭いをさせてきた。
今こうして踏ん反り返って生きていられるのは、イエスを受け入れ信じた信仰という神との絆の故であった。
思い起こせば、踏ん反り返える理由など微塵も無いのに・・
アブラハムは以前築いた祭壇、つまりベテルとアイという町の中間に戻ってきた。
そこで彼が何を祈ったか聞いてみたい思いがする。
そこから南へと出掛けて行ったあの時の気持ち、そして今こうして無事に戻ってこられた結果、彼の胸を去来するものは何であったろう。
私には分からない。
だが、次の彼の行動から何かを感じ取れる。
それは彼が利己的な選択を優先せず、年の離れた甥っ子に一歩を譲る態度を見せたからだった。
クリスチャンになって似たような体験をするとき、きっと何処かで誰かも同じ体験をしているかも知れないと思ったことがある。
一世代年下の甥のロトは、長い間アブラハムについて来ていた。
早くにして親を失ったロトは叔父のアブラハムを親の様に慕っていた。
だが今、アブラハムもロトも僕を持ち、家畜も増え、彼らの牧者同士の争いも絶えなかった。
互いに年をとり財産を得てみれば、一緒に行動し続ける理由もない。
群れ同士の争いや喧嘩も避けたい。
祭壇の前で祈るアブラハムに、過去の反省と新しい生き方を主が導かれたのかも知れない。
ここに人が主と生きる故の素晴らしい祝福がある。
人の良心だけでは片付かない選択と判断を、生ける神は大きな平安と義を通して導かれる。
主の前に謙遜な気持ちを貫けるなら、己の品性と安らぎは何倍にも増して自身を向上させてくださる。
何と言う恵みと祝福であろうか。
この世で幾ら金を積んでも買えない宝は、実に己が内なる深いところに埋まっているのだ。
それに気づかせ掘り起こさせるのは、キリストという神の御力と存在である。
世の人達よ、キリストを信じて失うものなど一つも無い。
それどころか、得てゆくものは数知れず有るのに、それらを見ずして手に入れずして、この世を去って行かれるとは、なんとしても残念ではないか。
アブラハムはロトに話しかけた。
「なあ、ロトよ。今日まであなたと一緒にカナンの地にやってこられたの創造主のおかげだよ。
我々も多くの家畜を得たし、しもべも増えた。
どうだろう、お互いの為に離れて暮らすのも、それぞれが独立して生きる道になると思う。
あなたが右に行けば、私は左に行こう。あなたが左に行くなら私は右に行こう。
だから、どちらでもあなたが欲しいと思う地を選んでおくれ。」
言われてロトはぐるりと遠くまでを見渡した。
そしてエジプトのように潤った低地の町に近い場所を選んだ。
アブラハムは高地を選び、二人は別れた。
ロトが去って間もなく、今度は主からアブラハムに言葉があった。
『さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。
あなたが見渡している、この地すべてを永久にあなたとあなたの子孫に与えよう。
立ってその地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。
アブラハムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。
そしてそこに主のための祭壇を築いた。』
今から12年前、会堂の隣の畑が開拓され、宅地として区画売りに出された。
だが、実に高価だった。
普通に考えたら、私達の教会の規模では、1区画でさえ背伸びしても手の届かない価格だった。
だが遠い昔、この地はすべて創造主のものであった。
今は個人の所有地であったが、昔は神のものだった。
凡そ信仰とは、道理の通らない破天荒なものに思えるものであると我が心を思った。
私は身勝手であったが、週二回の夜、売地を縦と横、その地をグルグル歩き回りながら数か月間祈った。
「神さま、この土地はあなたのものでした。今は個人の所有ですが何とか教会で買い取りたいのです。あなたの祈りの家、あなたを礼拝する所として、御こころでしたら与えて下さい。」
幾度も幾度もその土地を踏んで祈った。
遠い昔、アブラハムがしたように。
あれは二年に渡っての取り組みだった。
諦めかけた時もあった。
だが、結局諦めなかった。
毎週二回、教会員をメーリングリストで励ました。
果てしない、無駄に思えるような取組は年を跨いで取り組んだ。
翌年の11月、神はその土地を教会にくださった。
あの時のことは生涯忘れない。
苦しんだ土地代も来年の今頃は完済となる。
この13年間、多額の債権処理は常に重く圧し掛かっていたが、「主、われと共におられる」と信じれば心は軽くされた。
隣地は今も依然として更地であるが、いつか新会堂が建つと信じている。
そうでなければ、私たちは与えて下さった主に嘘をついたことになる。