■私は葡萄の枝/ヨハネ15:1~10
「わたしはブドウの木、あなた方はその枝である。」ヨハネ15章
といわれるイエスに向かって「こんな枝で宜しいのですか?」という思いと、「駄目なら切ってください。」という思いが執拗に浮かんでくる。
どうもへそ曲がりで、ひねくれた枝だと、自分でも思う。
その理由であるが幹からの栄養分が気に食わないからだ、と察する。
勝手に実をつけたい思いが強くて、木の助けを必要としたく無いからであろう。
これはまるで荒野のイスラエル人である。
この章で主は幾度も言われる。
「わたしにとどまっていなさい。」
「わたしにつながっていなさい。」
要するにイエスが私達を諦めないのである。
だから、今日も枝としてつながることが出来ているのだ。
身勝手で自己中な枝なのに、そういう枝なのに、イエスは実を生らせようと願っておられる。
自分の栄光ばかり考える枝なのに、切り落とされない。
切り落とすは一瞬の作業。
何とか、と思い世話するは時間と労力、そして忍耐の連続。
父なる神が農夫であって、つくづく良かったと思う。
気の短い農夫だったら、とっくの昔に切り落とされていた筈だ。
これほど不遜で我儘な枝であるのに、今日も「わたしにつながっていなさい」といって下さる。
「わたしに留まっていなければ、実を結ぶことは出来ない」ヨハネ15:4
つまり枝だけでは、仮にこの世に生きたにせよ実など結ばないのである。
世の実はつけたにせよ、キリストの実はならない。
そういう人生が良いのか・・・
「イエスがいなければ生きる術(すべ)無し」という讃美歌がある。
そのとおりなのだ。
つまり頭でわかっていても、腹まで落ちてない、からである。
今日生きていられるのは、イエスが創造主にとりなしておられるからである。
「わたしを離れては、あなた方は何もすることが出来ないからです。」ヨハネ15:5
留まるとはつながること。
繋がるとは密着すること。
枝は瞬時とも木から離れられない。
木から離れて実は決して結ばない。
榎本保朗師が言っておられた。
「信仰とは自分の思いに神を組み込むことではなく、神のみこころに自らを組み込まれることである。」
確かにそうだと思う。
間違っていた点は此処にあった。
逆だった。
枝を幹に組み込むのでなく、木が枝を生やしてくれたのだから。
「あなた方は、わたしがあなた方に話したことばによって、もうきよいのです。」15:3
人は自然にきよくなどならない。
人は己の努力も修練、鍛練もキリストの前には何の価値も持たない。
自分に頼る限り、己を信じる限り、人はキリストの木に相応しい枝にはならない。
木が生えさえて下さったのだから、枝は木の幹の意のままになっていれば良いのだ。
そうすれば実のなる枝とされるのである。
「わたしの枝で実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、父は刈り込みをなさいます。」ヨハネ15:2b
実をならす枝ほど、農夫は剪定を丹念にきめ細かくするだろう。
それは農夫の期待の現れであり、切る意味があるからだ。
或る意味、それは枝にとって非常に痛いことである。
実をならしたのに、切られる。
不条理と思う時間帯である。
しかし、それは農夫の期待度であり、木と枝の全体のバランスを取るためである。
此処が枝の耐えどころである。
思い出そう、枝の痛みは木の痛みでもある。
枝が枯れないように、勝手に伸び過ぎないように、ぶどう園の繁栄のために、剪定があることを。