■彼は誰?/マタイ16:13~23
イエスはご自身のことを敢えて「人の子」と幾度も言われた。
それは彼だけの独特な呼び方だった。
それは人々がイエスの為さる不思議なわざを見て、メシヤとかキリストが意味する「救い主」をどう位置付けするかによって最も懸念された点であった。
イエスはイスラエル国家と人民の独立解放といった政治色の色濃いメシヤ(救い主)として、世に来られたのではない。
確かに「苦難のしもべ」とか、イスラエルを神の前に建たせた「ダビデ王」的な象徴の存在として、旧約聖書に予言されているのも、確かにイエスである。
イエスが、こだわって口にされた「人の子」とは、人(肉体の弱さ)の限界を背負い、人の生活に生き、悲しみ、苦しみ、涙、呻き、喜びといった人間そのものを共有した存在であり、且つ、人類を罪から救い出す救い主キリストその方だった。
そして彼は「神の子」である。
「神の子」とは疑いなく神である。
神と同様の位格、神格を持たれた方である。
「神の子」と位置づけたところに教会は自ら過ちを犯してしまった点。
それは人間に分かり易い位置づけだった。
神は三位一体、父、子、聖霊、なる構成が教会にとって分かり易かったからであろう。
そしてイエスは21世紀の間、神の背に届かない「かなり寸足らずの子」と思われて来た節が大いにある。
そう、神になりきれなかった子であると。
だが、私はそう思わない。
彼は神その方である。
だからキリスト教である。
イスラエル最北部、昔12部族のダン族、マナセ族の背にそびえるヘルモン山から雪解けの水が水量豊かに湧き出る場所の近くにピリポ・カイザリヤの町があった。
1988年、その水流の傍の岩場に立ったとき以来、マタイ16書のこの場面は景色と共に生きて私の心に刻まれた。
或る日、イエスが其処を訪れた時、弟子達に問われた。
「人々は人の子を誰だと言っていますか?」
彼等は答えた、「バプテスマのヨハネとか、エリヤとかエレミヤと言う者もあり、預言者のひとりだとも言っていますが・・。」
イエスはもう一度問われた、「あなた方はわたしを誰と言う?」
シモン・ペテロが答えた「あなたこそ、生ける神の御子、キリストです!」
この聖句を読む前に、自問自答してみたいことがある。
それは「イエスは誰?」
あなたにとって「彼は誰?」である。
教会で教えられ、慣れ親しんでしまった返事で私は納得出来ない。
あなた独自の「彼観」「キリスト観」がある筈だ。
何年も、何十年もクリスチャンとして生きて来て、礼拝に何百回も参加し、聖書通読を数回というツワモノもおられるだろう。
その人が仮に「はい、イエスは神の子です。」それで、あなたは納得できますか?と問いたい。
クリスチャンとはイエスを受け入れ信じて救われ、イエスと共に人生を生きてきた者と、私は思う。
様々な体験、生活、人間との出会い、様々な問題との遭遇バラエティに富んだ日々があった。
そういう日々をイエスと、どう生きて来たかは、すべての人が異なる体験とキリスト観を養われて来たと思う。
そのとき、ペテロの答えにイエスは激しく霊の高揚を覚えられたと、私は思えてならない。
イエスの言葉にそれらが充分に含まれているからだ。
『バルヨナ・シモン!(ヨナの子、シモン!)汝は幸いなり、汝に之を示したるは血肉に非ず、天にいます我が父なり!』
私だって思わずビックリマークを置きたくなる場面であった。
ペテロがイエスを「生ける神の子、キリストです」と言ったとき、イエスはペテロに「ヨナの子、シモン!」と言われ、「それを言うは血肉に生きる人間から発した言葉ではなく、御霊なる神が言わしめ給うたものである!」と仰った。
「彼は誰?」
イエスは通俗的で平坦な、誰もが言う呼びかたを期待されているのではない。
個人個人がイエスと生きて味わったイメージ、体験したイエス、共存したイエス、その生活の中で忘れられない、刻まれた印象から来るイエス観がある筈だ。
そこから生まれた言葉があると思う。
100点満点を目指す必要はない。
あなたであればこその呼び名があってほしい。
それだから「血肉に非ず、天の父なる神が言わしめ給うた呼び名」であろう。
生ける神?そう、私達の神だけが生きておられるのだ。
罪の泥沼から拾い上げ、つまみあげて、御子の血潮で汚泥を洗い流して下さった方が『生ける神』その方である。