■神を納得させた男/創世記22:1~24
- 旧約聖書/創世記
- 2017年3月12日
- 読了時間: 3分
今年の3月12日は日曜日である。
同じ巡り合わせは7年後にやっては来ない。
閏年があるため大体は11年後になる。
このこだわりは、私が神に捉えられた日であったから忘れられない日となった。
1978年3月12日、そこから39年目が今年にあたる。
クリスチャンにはならない、とんでもないことだ。
信仰、冗談じゃない、有り得ない。
そういう腹積りであったが、毎週礼拝には参加していた。
9カ月貶し(けなし)に貶して、迫害した妻のキリスト教だった。
礼拝に座っていたが、座っただけで心だってその場所に欠片も無い。
メッセージなど一切入らない。
入れないのでなく、入らないのである。
聞いていた筈なのに、一向に入って来ないとは、なんとも実に不思議であった。
聞く耳を持たなかったとは、あのことだろう。
取り敢えず妻や子供達と一緒に礼拝に座る。
それだけのために、仕事が忙しい日も付き合った。
決心したとおり、それを行動に移したのは情けないプライドの故だった。
今年の3月12日、今まで持ったことの無い感情が突き上げた。
おそらく牧師として2度と同じ3月12日の日曜日を迎えられないと思ったからか。
だが、有り難いことだ。
遅まきで救われ、遅まきながら神学校に通い、出遅れて芽吹いた牧師となって・・・
そんな者が間もなく23年目を迎えられるとはイエスさまって凄いや!だけである。
39年前のあの朝、退屈しのぎに聖書をめくっていた。
確かに退屈だった。
時間との戦い、忍耐との戦いでもある日曜礼拝。
既に2か月半近くは耐えていた。
早く礼拝が終えて昼飯が出て、そして帰宅したいと思う毎週の日曜礼拝。
分厚い聖書だからこそ、やはり最初から捲っていたのだろう。
元々分からない聖書を途中から読んでも、尚わからない。
エデンの園、兄の弟殺し、やがてノアの方舟・・・ああ、昔どこかで目にした物語。
アブラハムの話、ソドムとゴモラは酷い街だった。
天から降り下る硫黄の火の裁きは当然だった。
高台へ山へと逃げ惑うロトと家族。
人々の断末魔の叫びに思わず振り向いたロトの妻は塩の柱、コエ~!
逃げ伸びたロトの娘たちは何と父を酔わせ、子供をもうけた・・・。
これでも聖書?
そう、聖書であった。
アブラハムの物語は興味深い。
その朝、生まれて初めて聖書に魅入られた。
創世記22章
『これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。
神は「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は「はい、ここにおります。」と答えた。
神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼の生贄としてわたしにささげなさい。」
分けが分からなかった。
(ようやく恵まれた跡取り子を、なぜ神は生贄として捧げなさいなどと言われたのか。)
4節冒頭、「アブラハムは翌朝早く、ロバに鞍をつけ、二人の僕とイサクを連れて出発した。
(彼はどうして翌朝一番に出掛けられたのか?)
イサクとて6歳か7歳であったろうか。
生贄の動物がいないのを不思議に思って父に言うが、アブラハムはこう答えている。
「イサク、神ご自身が生贄の羊を下さるのだ。」
そして祭壇を築き、薪を並べ、その上に生贄とする息子を縛って乗せ、刀を振りあげる。
時に主の使いが彼を呼び、アブラハムを呼び止めた。
「その子に手を下してはならない。あなたが神を恐れることがよく分かった。」
そこから先は読まなかった。
思考が停止した。
(アブラハムはどうしてそれが出来たのだろう、彼はどうして神を信じきれたのか。)
俺に出来るだろうか?いや絶対出来ない。
だけど、彼のようにそこまで信じきれるものなのか。
でも、本当にそんな神が居るとしたら・・・
私は表面にこそ現さなかったが、確かに夕方までも消えないショックだった。
その夜、私の心を誰かが激しくノックした。
苦しかった・・何か言葉を発しなければ・・ドアを開かなければ。
そして妻に言った、「もし神が居るのなら、俺はこの聖書の神を信じてみたい」
1978年3月12日夜11時少し前、私は聖書の神を受け入れた。
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