■私のイエス・私のキリスト/創世記35:6~29
ヤコブという人は、どこにでもいる普通の人であると考える。
特に悪くもなく、特に偉人でもない。
そこで彼にまつわる記事を読んで直感的に感じたことは「狡猾な男」というイメージである。
それは読む人が、いつの間にか自分を正しい者とか、良い人として決め込んでいるからだろう。
私でさえ、ヤコブのイメージは否定的なものだった。
昔、家内から何かの時に「あなたはヤコブの様だ。」と言われ、少なからず面白くなかった。
しかし、冷静になって考えてみると「うん、よう言ったものだ。」と感じ入ったのを覚えている。
そして、その頃からヤコブが好きになった。
遂には或る日、ヤコブという人は、自分にソックリだと思えた。
ヤコブがパダン・アラムから故郷に帰って来た頃、主が彼に現れ仰せられた。
「あなたの名は、もう、ヤコブと呼んではならない。あなたの名はイスラエルでなければならない。」
その時から、彼は自分の名をイスラエル(神、戦い給う)と呼んだ。
そして神は、彼から国民が増え、更に増し加わり、王達さえも生まれ、アブラハム、イサクに語られた約束は実現されるといわれたのである。
アブラハム、イサクに告げられた神の約束(土地と民)は、ヤコブを起点として本格化し、やがては民族の増大と膨張を見ることになった。
しかし、それはヤコブがアブラハムやイサクよりも特別に素晴らしかったからではない。
神の時が至ったからである。
創世記35章の記事はヤコブ族の生々しい営みが書き連ねてある。
ヤコブの末っ子のベニヤミンが生まれたが、お産の際にヤコブが生涯愛した妻ラケルが亡くなった。
ヤコブの母、リベカに関する記事は無くとも、リベカを育てた乳母のデボラが死んだと書いてある。
ベテルという場所では、ヤコブに現れ語られた主に感謝し覚えるために、石の柱を立て葡萄酒を注いだとある。
また、ヤコブの長男ルベンは父の側妻ビルハと寝たが、イスラエルはそのことを聞いたとだけ書いてある。
35章の最後にはイサクが死に、彼の息子エサウとヤコブが葬ったとある。
世代の交代と族長の生きた日々が、感情を殆ど伴わず書き記された。
アブラハム、イサク、ヤコブ、それぞれに性格が異なり、人間性も異なっていたが、神は彼等を愛おしみ、慈しんで育てられた。
アブラハムを選ばれた神は、ヤコブ族、イスラエル民族をずっと背負う嗣業を良しとされた。
そしてキリスト・イエスは、その末裔のヨセフの系図にお生まれになった。
神の嗣業は今も継続している。
イエスを信じ救われた民を背負い続けて来られた。
背負った民を背から降ろされることはない。
私が降りようとしない限りは・・・
私達は旧教と呼ばれたユダヤ教ではなく、キリスト教という言う新教の下に置かれているのではない。
祝福の父であるアブラハムの祝福を今も受け継ぎつつ、律法を成就されたキリストの故に確かに、この罪を赦され救われたのである。
確かにヤハウェからアドナイ、そしてキリストと呼び名が変わったが、おひとりの神、おひとりの主、おひとりのキリスト、唯一無二の神は主であられる。
人間は確かに「考える葦」である。
しかし、聖書の域を超えて考えることは過ちの始まりとなる。
だから『わかろうとしないで、神と神のことばを受け入れる』ことが良いと思う。
相手は人ではない。
神、主である。
人さえも理解出来ない人間、ましてや自分さえも思うに出来ない人間が、神を知り極めようとするなど傲慢の極である。
人が間違いを犯すとしたら、彼の内に大きな二つの力があるからだ。
それは感情と理性という、際立って強力な力である。
そして、どちらも力強く、頼もしい身近な助っ人であることは間違いない。
しかしである、彼らに頼り過ぎてはならない。
信仰とは、感情のみに頼るでなく、理性だけに頼るものでもない。
つまり、主とあなたの間に如何なる力も存在も影響を及ぼしてはならないからだ。
あなたの本音、魂において、御霊の神と直接的な交流が望ましい。
基盤は主のことば聖書であり、見上げるは、よみがえりの主キリストである。
私達の救いは、私達が素晴らしかったからではない。
ひとえにキリストの選びだけである。
そしてキリストの選びに対し、同意し、納得した(つまり受容)のである。
ああ、主が私達を確実に産み落とす為、どれほどの時間と忍耐、寛容の限りを持たれたのか、想像出来ない。
兄弟姉妹の皆さん、いかがであろうか?