■私を背負う神/創世記35:1~5
申命記32章(新共同訳)
『いと高き神が国々に嗣業の土地を分け、人の子らを割りふられたとき、神の子らの数に従い、国々の境を設けられた。
主に割りふられたのは、その民「ヤコブが主に定められた嗣業」。
主は荒野でヤコブを見出だし、これを見つけ、これを囲い、いたわり、ご自分の瞳の様に守られた。鷲が巣を揺り動かし、雛の上を飛びかけり、羽を広げて捉え、翼に乗せて運ぶように』
イザヤ書46章(新改訳)
『わたしに聞け、(と、神はいわれる。)
ヤコブの家とイスラエルの家のすべての者よ。
あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。
あなたが白髪になっても、私は背負う。
わたしはそうして来たのだ。
なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。』
旧約の言葉を読んで、幾度も感動し、神の変わらない愛と慈しみに心を揺るがされた。
単発的に拾い読みしたにせよ、あれほど感慨深いものがあった。
ましてや、ヤコブの人生、神の愛の迫りを読んで来て詩篇、イザヤを読んでみれば旧約の大河は一本になってゆったりと確実に流れていることが分かる。
大きな河ほど水の流れは目に留まりにくい。
目をしばたたかず、じっと一点を凝視する時、確かに水はゆっくりと流れていることが分かる。
旧約から新約へ。
広くて長い大河の旅の移り変わりは、とても人間の目に見えるものではない。
ヤハウェからキリストへ。
一見、別世界のことかと錯覚してしまった。
だが、それは確かに一本の河である。
神の愛の対象はヤコブ族、そしてイスラエルへ。
そして異邦人世界へ。
創世記冒頭のメシヤ到来の約束は新約への架け橋そのものだった。
これを信じる人々、信じられる者は誰あろう、キリスト者以外の誰でもない。
キリスト者よ、あなたはヤコブ族祝福の約束そのままに、神の嗣業の対象である。
だが果たしてあなたは、この未来永遠の約束を自分のため、自分のこととして考えたことがあるだろうか。
あなたの信仰の父、祝福の基はアブラハムである。
祝福の基はあそこから始まっていた。
神はヤコブ(イスラエル)を背負った(おぶわれた)のである。
神の嗣業としてである。
イスラエルから異邦人へと救いの対象は拡大したが、神の愛の質そのものは僅かたりとも薄められなかった。
却ってもっともっと濃くなった。
圧倒的に濃くされた。
異邦人が救われるために、神はそのひとり子を我々に賜ったのである。
当然の如くに生きて来て、父の愛を見失ったヤコブ族が放蕩息子の兄であるならば、遺産も約束もなく、貰ったすべてを使い果たし、身一つになって家に向かった弟息子を走り寄って抱きしめた父の愛を受けたのは異邦人キリスト者である。
神はヤコブに向かって、「わたしはずっと背負い続ける」といわれた。
キリスト者とて同様である。
私達は神に背負われたのである。
決して降りてはならない。
あなたがキリスト教を背負ったのではない。
キリストがあなたを背負ったのである。
背負われたことは実に自由であり、豊かである。
自分で頑張って行く道に迷う必要などない。
明日も明後日も、来年もその数十年先も、ずっとその先をすべてご存じの主が背負っておられるのだから。
一寸先も、一分先も見えない人間が先を心配してどうなるのだろう。
それ程に私達は背負われた方を信用出来ないのだろうか?
そんなことをイメージしたとき、自分のことながら余りにも滑稽で思わず笑ってしまった。
何のためにキリスト信仰があるのか。
何の目的で礼拝するのか?
聖書に何を期待して読むのか?
主がヤコブに語られた。(創世記35章1節)
「あなたが兄エサウから逃れていたとき、『あなたに現れた神のために』祭壇を築きなさい。」
21世紀の兄弟姉妹、すべては「神のために」である。
自分のためではない。
もう十分過ぎる程に、自分のために生きて来たではないか。
その立ち位置を変えない限り、神の大河も、その河の一滴である己への祝福も、理解出来ないであろう。