■ヤコブの戦った相手/創世記32:19~30
どんな動物でも野生という本能を失ってはいないと思わせられる事故が起きた。
飼育していたライオンが飼育員の首に噛みついた。
首に噛みついたということは、相手を殺すつもりそのもの。
或る意味、人間も同様な生き物である。
人間こそ、その本能を失っていない生き物だ。
文明の花開いた現代であっても、残酷な行動に出て殺したりする。
それだけではない。
人間には内面で練り上げた策略で、相手を失墜させたり、人生を奪ったりすることだって出来る。
野生の動物の方が、はるかに分かり易いのであるが、私達は動物を甘く見過ぎていたのかも知れない。
猫や犬に慣れきった人間の傲慢であって、動物に罪は無い。
顔を見せたら殺される熊や猪が哀れでならない。
彼等の環境を破壊したのは多くの場合、人間であるのに。
人間だって神が創造された自然界に住まわせて、もらってるのに。
地上で最も残酷な生き物が人間という万物の霊長類であるとは・・・
イスラエルの始祖はヤコブである。
ヤコブ・イコール・イスラエルなのだ。
ヤコブを考えて4カ月目になるが、その中から浮き上がってきたことは。
神は本当にイスラエルを愛しているということ。
何故かというと、神の嗣業がヤコブ一族(つまりイスラエル)だった。
父の家業を息子が受け継ぐことを嗣業というと分かり易い。
我らの神が嗣業を背負われたとは、なんともユニークな行為だろう。
イスラエル民族は何十世紀(数千年)も存在し続けて来ている。
その間には戦争、離散、迫害、崩壊があったが、遂に1948年5月、再び国家として再構築した。
そして少なくとも1800年間失われていた国語であるヘブライ語もよみがえった。
だが、その間もユダヤ人は存在し続けた。
世界中に離散し、放浪し、迫害を受けても、彼らは死に絶えることは無かった。
それはヤハウェと呼ばれる生ける神が、彼らを嗣業として背負っていたからだ。
すべてが奇跡であった、と人間なら思うだろう。
ヤコブは20年近くカナンを離れ、北の広大な地パダン・アラムに住む叔父の家に住んでいたが遂に故郷へ帰る道が開けた。
故郷へ錦を飾るべく、凱旋の旅の筈ではあったが・・・
故郷が近づくにつれ、ヤコブ心は自ずと騒いだ。
兄エサウはどんな顔をして自分の前に現れるのだろう?
エサウの心は20年前と同じに、私を殺したい程に憎んでいるのだろうか?
エサウの暮らしは?
ヤコブは出来る限りの工作を試みた。
群れを集団でなく、細長く、更にグループに分け、最悪の事態が襲っても生き延びる道を選んだ。
エサウの心を穏やかにさせる言葉を先頭の僕に託し、次の群れにはエサウへの贈り物を、その後に妻と子供達を歩かせた。
ヨルダン川に注ぎ込むヤボク川。
その渡し場に来た時、すべてのものが川を渡った夕暮れだった。
妻や子供を向こう岸に渡したけれど、ヤコブはひとり戻って来てしまった。
渡れなかった。
向こう岸から程ない距離の場所で、おそらく明日、エサウと出会わねばならないだろう。
心が激しく波打った。
戻って来なければよかったのか。
だが、戻るしかない。
だが、このままではエサウの顔を見られない。
その晩、ヤコブは「ある人」と格闘した。
相手は神か、ひとか?
それは レスリングの様な取っ組み合いだった。
二人は激しく戦った。
ヤコブは強かった。
するとその人はヤコブのもののつがいを打ち、関節をはずしてしまった。
だがヤコブは必死に相手にしがみついて放さない。
相手は言った。
「わたしを放せ、夜が明けてしまう」
「ならば、私を、私を、祝福して下さい。」
「分かった、祝福しよう。名は何と言う」
「ヤコブ(押しのける者)と言います。」
「あなたの名は、もうヤコブではない。イスラエル(神戦い給う)だ。神と戦い、人と戦って勝ったから。」
そして夜が明けた。
ヤコブが闘った相手は誰?
長い間、私の中で納まりきれない部分だった。
そして今回思った。
もしかして『ヤコブの相手は、ヤコブ自身だった』と思った時、妙に納得した。
今まで考えたこともないイメージ。
神に対して全幅の信頼を置きたいヤコブ、だが、それを拒むもうひとりのヤコブ。
神に向かうキリスト者なら、その人生で一度か二度、必ず迫られるだろう。
私にせよ、39歳、そして42歳の頃の二度あった戦いは忘れられない岐路でもあった。
それは「ふたりの自分」が激しく戦わねば越えられない「信仰の川の渡し場」である。
私の相手キリストだった?
いいや、自分だった。