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■虫けらのヤコブ/創世記32:1~21

イザヤ書42章14節

「恐れるな、虫けらのヤコブ、わたしがあなたを助ける。」

15年前、思いっきり凹んでいた私であったが、何とか聖書の言葉によって引き上げられたいと思っていたとき、目に飛び込んできた主の言葉。

「虫けら」という言葉と「わたし(神」があなたを助ける」がチグハグに思えたが、そのギャップの中に生き生きとした神のヤコブに対する愛情が漲っていた。

神と人を比較するとしたら、人間など蟻かカメムシ程度のものでしかない。

小さいし、臭いし、うっとうしい。

神は全知全能、輝く栄光、偉大で、聖なる義なる永遠の存在である。

片や人間は有限なる存在、霊的堕落死、無力、自己中心、おぞましきもの、限りなき罪びとである。

そのヤコブたるイスラエル民族に向かって、神は直接的に助けるから恐れるな、と言われた。

虫に取ってなんと有り難く熱いお言葉だろう。

だが、ここでいう「虫けら」とは、決して単に蔑視の呼び名ではない。

愛情と慈しみ満載の呼び名であると、私は前向きに理解した。

だから虫けらと呼ばれ、思わず「ありがとう、イエスさま」と涙した。

2002年3月16日、忘れられない日であった。

虫けらと自認すれば、この世で耐えられないことなどない。

人にとって、最もその人生を邪魔するものこそがプライドである。

プライドなど小さな紙切れの如く、風に飛ばしたらいいだ。

ヤコブの末裔こそがイスラエル民族である。

アブラハムを祝福し、イサクを育み、ヤコブを愛した神。

三人目は祖先として、かなり胡散臭い存在であった。

しかし、選ばれたのは神である。

主はヤコブに12人の子供を与え祝福した。

ヤコブという名が意味する(かかと)とか(騙す)ではなく、「イスラエル」という(神、戦い給う)名で改名までして下さった。

虫けらヤコブのマイナス面はすべて主が洗い流され、代わりに臨在と祝福を与えられたのだ。

私達日本人は血統からすればイスラエルではないが、ヤハウェが愛する神の民、神が血をもって買い取られた民である。

一番大切なことは民族の血ではなく、キリストに出会い救われ、キリストを神と拝し、神の民として生きる人生である。

メソポタミヤ、パダンアラムの地にて財を成し、族長となったヤコブは20年ぶりの我が家へ向かった。

想像を絶する家畜の大群を持ち、二人の妻とその召使、11人の子供達としもべ達を引き連れたヤコブの大家族、つまりイスラエルの源流はカナンの地へと流れ始めたのである。

ヤコブの心中は懐かしい父母の顔、故郷の景色に胸躍るものがあったが、もう一方で不安と焦燥にかられるものがあった。

それは双子の兄、エサウの顔である。

あの時、家に留まっていれば殺されたであろうヤコブにしてみれば、20年の月日は救いか忘却か見分けはつかなかった。

双子であるエサウの心を知るヤコブにとって、それは恐ろしいエサウを想像してしまうのだ。

ある所に来たとき、混沌とし思いのままの彼の目前に主の御使いが現れた。

ヤコブは彼らを見たとき「ここは神の陣営だ」と言って、その場所をマハナイムと呼んだ。

つまり、心穏やかならぬヤコブに対して、神の側から現れて下さったのである。

20年前、石を枕に荒野で微睡むヤコブ、あの晩、思いもよらず夢の中で現れたのはアブラハム、イサクの神(ヤハウェ)であった。

ヤハウェへの信仰さえおぼつかない、上の空のヤコブに向かって、主が彼を守り祝福し必ず故郷へ連れ帰ると約束されたのである。

ヤコブはあの晩、その方を「ベテルの神」と呼んだ。

「まことに主がこのところにおられるのに、私はそれを知らなかった。」

あの時も、ヤコブが主を求めたわけではない。

マハナイムでもヤコブが神を求めたのではない。

いつも神の方からヤコブに語りかけられた。

イザヤ65章1節

「わたしに問わなかった者達に、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者達に見つけられた。わたしはわたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、『わたしはここだ。わたしはここだ。』といった。」

果たして私達は如何だろう。

殆どの場合、私達が神を呼んだのではない。

否、いつだって神が私達に語られ、現れて下さるのだ。

私が求めたのではない。

主が、キリストの方から私達に出会ってくださった。

1978年3月12日、日曜日朝、礼拝の場所で退屈しのぎにぱらぱらと捲ったところに、聞き覚えのある「ノア」の名が目に飛び込み、そこから暫らく読み進む中で、アブラハムの信仰に出くわした。

まるで長年の求道者に対する様に、主が私をつかまえられた。

同日あの日、あの夜、キリストは私を呼ばれた。

何一つ神もキリストも求めない、救いも必要としなかった私の心の戸を叩かれたのは、キリストだった。

あの晩「わたしはここだ、わたしはここだ。あなたの戸の前に居るのはわたしだ。戸を開けてくれないか。」

主は私を諦めなかった。

その日曜の朝、そしてその晩、イエスは私を訪問され、戸を激しく叩かれた。

私は生まれて初めて自分の心にドアを見た。

そして、彼を招き入れた。

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