■ イエスの兄弟、イエスの姉妹 / マルコの福音書3:31~35 (2005-01-30)
- マルコの福音書3:31~35
- 2005年1月30日
- 読了時間: 2分
イエスが大勢の人たちに囲まれているのを心配したマリヤと兄弟たちは、人を遣わしてイエスを迎えにやりました。イエスのそばに居た人は、「あなたのお母さんと兄弟が外であなたを待っていますよ。」と言ったところ、イエスは言われました。「わたしの母とは、わたしの兄弟とは誰ですか。神の御心を行う人は誰でも私の兄弟、姉妹、また母なのです。」
皆さん、主イエスが私達を「わたしの兄弟、わたしの姉妹」と呼んでくださるのです。でも、そこに要因が伴うのです。ただ、頭で信じているだけの信仰ではなく、「神の御心を行う者」だと言われます。クリスチャンであるなら、誰でも神の御心を実行したい、という願望がある筈です。しかし、結果として振り返るとき、何も出来ていなかった、としか思えないのです。頭でわかっていても、現実が伴って行ってない、と。ここが、多くの信仰者のジレンマです。 でも、もしかしたら私達が考えているイメージには想像分が多すぎないでしょうか。主は私達に出来ないようなことを期待する方でしょうか?
先ず、「神の御心」とはなんでしょう。聖書を一言で言うなら「神を愛し、人を愛する」ことです。もう少し深めれば「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして神を愛すること」と「自分を愛するように隣人」を愛することです。すべてはここから発しています。ここで言う「愛する」とは神を尊び、他者を尊ぶ、ことです。省みて人間は何を尊んでいるでしょうか。神よりも他者よりも「自分」なのです。ここが焦点です。尊ぶという焦点をどこに当てて生きているかで、すべてがわかるのです。自分中心、自己中心という人間世界が、悲しみや苦しみをもたらしているのです。裁判官が語る判決の理由に必ず用いられる表現であり、事実なのです。
神の御心が行えない自分を感じたら、原因は自分が何を尊んでいるかを考えれば、如実に浮かんでくるのです。出来ないことで自分を卑下したり、裁いてばかりいないで、イエスをしっかりと心で受け止め、彼と生きることです。神の御心を行えるか否かでなく、日々をイエスと共に生きることです。彼は決してあなたを裁きません。あなたを捨てません。あなたを孤立させません。私達がどこで、どんな生き方をしていようと、いつも近寄って受け入れ、立たせてくださる方です。出来ない自分ばかり見続けないで、手を差し伸べてくださる主イエスを見ましょう。
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