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■ キリストにとどまりなさい / ヨハネの福音書15:1~9 (2008-12-28)

今年最後の礼拝となった。 教会では幾つかのビジョンを掲げて取組むことが、方向性が更にしっかりして良いと思った。 そこで先ず、「弟子訓練」をあげてみた。 キリストの弟子を目指さずして、クリスチャン信仰の方向性は無い、とさえ思うからだ。弟子としての様々な奉仕と内容はあるが、先ずはイエスさまの弟子を目指すことが良い。弟子であればこそ、師であるイエスさまを目指す。やがて賜物が開かれる。 牧師が師ではない。イエスが師である。 この方からしっかり目を離さないでいれば、そうは簡単に転ばない。多くの人が躓くのは、イエスを師とする場所に足を置くまで成長しないからだ。 キリストの弟子(Disciple)こそ、すべてのクリスチャンが意識して生きる道と思う。

チャーチ・ファミリーと言う取り組みを始めて二年目に入った。 教会こそ、私達の人生の家族である。血肉の家族は両親の血を受け継いだが、教会家族はイエスの血によって生まれた家族である。故に血肉の兄弟とは大きく異なる。それは「霊的」な兄弟姉妹だからである。ここには両親はいない。おられるのは「天の父」のみである。 このファミリーには「しもべ」たる立場の夫婦が置かれる。 彼らは「リーダー」であって「リーダー」ではない。あくまで「皆のしもべであり、主のしもべ」である。 「しもべ」に徹すれば、リーダーの役目が果たせる。イエスに仕えるなら「しもべ」になれる。 イエスさまは天の御座の栄光を捨てて、世に下って来られ、私達罪びとに仕えてくださった。そして、十字架にまでついて、自らの死をもって、罪びとの代価を支払われた方である。この方以外に見本はいない。辛い場面があるかも知れないが、イエスさまに仕える思いで取り組めば、必ず果たせる。 チャーチ(Church・family)ファミリーは調布南の未来を造ると信じる。

最後は教会堂である。と、言うよりも礼拝堂が欲しい。聖堂(Sanctuary)と言えるかも知れない。 現在の礼拝堂は多様な目的をこなす。礼拝、食堂、遊び場、交わり、コンサート・・・ETC 実際、この場所しかないから仕方がない。幸いに主がくださった土地があるが、新会堂は10年後になるのだろうか、と思うほどの将来である。 つくづく旧約の人々の気持ちが理解できる。エズラ、ネヘミヤという人たちの血を流すような祈りと努力が身近に感じるほどに理解できのは、主の宮を待ち望む今だからである。

そして、上に掲げた三つの頭文字から『D・C・Sチャレンジ』と私一人で勝手に名付けてみた。 どの取り組みもイエスさまを忘れては進みようもない。すべて彼に従い、彼に留まるところから出発があり、ゴールがある。

そして、私達がイエスにつながりたいと思う以前に、イエスさまが私達につながりたい、と思っておられることを知って、思わず身がすくむ思いがする。 ヨハネ15:4 「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。」

人となられたキリストに留まるとき、私達には常に素晴らしい未来がある。 主の宮は必ず建つ。彼の御名によって。 目の前の高い壁さえ、エリコの城壁の如く崩れ落ちる。彼の力によって。 肉の人間さえ「主のしもべと」なる。彼の愛によって。 彼が信徒一人ひとりの中に留まって下さるからだ。Amen!

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