■金よりも銀よりも/創世記26:12~33
金よりも銀よりも大切なもの?
中東の地で生きる人々にとって、命をつなぐは金ではなく「水」である。
日本なら何処にいても容易く飲める水であるが、かの地に於いては水が無ければ即、死である。
金よりも銀よりも大切なもの?
それこそ人の命であるのだが、何かにつけて先立つものは「カネ!」と頭に浮かんでしまう盆暗の能無しであることが悲しい。
だが理由は有る・・・。
11年前、苦労に苦労重ねて土地を得ることが出来た。
奇跡だった。
確かに教会が一つになって祈り、そして主に捧げた。
主がそれを祝された。
だが今度は咽喉から手が出る程に新会堂が欲しい。
願いはそれだけだ。
祈っても願っても新会堂建築イメージが浮かんで来ない。
あたり前である、心がそこにないからか。
否、主のときに至っていないからかも知れない。
本当の教会とは建物ではなく、群れである。
キリスト者の群れである。
ならば・・・
金も銀も忘れて、「神のとき」を待つべきか?
それよりも「神に出来ないことはない」という御ことばを信じて、見えない橋を叩かずに踏み出すべきか?
そうだ、先ずどれがベストか祈って決めよう?
だが神に賭けることが最も辛くて心配だ。
本当はこれがベストなのだが。
ふらつく信仰の中で二の足を踏む。
11年前も、19年前も、27年前も、そうやってキリストだけに頼って来たのに。
もしかして長い間、この世的な水を飲み過ぎたせいかも知れない。
人間、8年以上もこの世の甘い水を飲んでいると、駄目になるのか。
イエスがいわれた。
「たとい全世界を手に入れたにせよ、まことのいのちを損じたら何の得があるだろう」(マタイ16:26)。
人間、死んでしまえば金でも銀でも、故人から見れば石ころでしかない。
残った者は大喜びであるが、死者にとっては何の値打も無い。
だが、仮に「永遠のいのち」を得られるとしたらどうだろう。
「永遠のいのち」を下さるのは、この世においてイエスだけである。
善行でも、金でも、地位でも権力でも、人間愛でもない。
イエスを信じること以外にすべはない。
信じるとは、イエスを自身と人生にお迎えすることだ。
嘘ではない。
疑うなら試してみるもよいだろう。
一番簡単なことなのに、人間にとって何とも難しいことらしい。
牧師になってから、このことをつくづく思い知らされた。
あげられるものなら、私があげたいくらいだが。。。あいにく誰かにあげることなど出来ない。
榎本保朗師が言っておられた金に値する言葉。
「私達にはイエス・キリストがおられることだけで、人生充分なのである。それ以外のものが欲しくなるのは、キリストの十字架が分からなくなっているからで、十字架がどんなものであるか本当に知った時には、他のもの全てが色褪せて要らなくなってしまうのである。」
さすが!
アーメンだと思う。
アブラハムの息子にイサクという人がいた。
彼は多くの僕と家畜を持つ族長であった。
飢饉の際、神は彼にエジプトに行かずゲラル(地中海沿いの場所)に行きなさい、と仰せられた。
エジプトはこの世を象徴する場所だった。
神の選民にとって誘惑満載の国だった。
イサクは言われたとおりにゲラルに行った。
イサクは天幕(テント)を住居とし、移動しながら暮らすベドウィン(牧畜民)であったが、ゲラルの地で畑に種を蒔いた。
すると彼は、その年に百倍の収穫を見た。
それは「主が彼を祝福して下さったのである」(創世記26:13)。
イサクは非常に富み、益々栄えて裕福になった。
主が祝福するとはこういうことなのである。
主と主のことばに従って生きると、半端ない盛り沢山の祝福がやってくる。
但し、先に祝福を求めてはいけない。
求めるは主だ!
飢饉のときも、試練のときも主を第一にすることだ。
確かに誰もが出来ることではないだろう。
だが、人間の目を気にするのでなく、主の御目の前に生きれば出来るのである。
ゲラルの人々はイサクを妬み、こう言った。
「あなたは我々よりはるかに強くなったから、此の地から出て行ってくれないか。」
イサクは其処から移動し、ゲラルの谷に住んだが、本当に必要なのは水である。
そこで長い間、土で塞いであった井戸(父が昔に掘った)を見つけた。
やがて水の出る井戸を見つけたが、途端にゲラルの人たちがやってきて難癖をつけた。
イサクの僕たちは別の井戸を掘った。
ところがその井戸に対してもゲラルの人々は争いをふっかけた。
するとイサクはそこを離れ、別の井戸を掘った。
その井戸は争いにならなかったので、イサクは喜んだ。
そして言った。
「主は私達に広い場所を与え、私達がこの地で増える様にしてくださった。」
如何であろうか。
何と大きくて前向きなイサクの言葉と行動か。
考えてみれば、ゲラルの人々はイサクの行く先を次から次へと難癖をつけては水場を奪って行った。
それでもイサクは争うことをせず、主が用意して下さる場所を別に求めた。
水は人にも家畜にも命そのものであったから、戦う選択もあった。
だが、イサクは神を信じ、主が備えて下さることを第一に求めた。
ベエル・シェバに来たとき、イサクはそこに祭壇を築き、主のみ名によって祈った。
彼は、此処までもイサクと家族、僕と僕達の家族、家畜一頭失うことなく生きて来られたことを神に感謝した。
僕達は其処に天幕を張り、井戸を掘った。
そのとき、ゲラルの王と仲間たちがイサクを追いかけてやってきた。
イサクは一瞬、危惧したことであろう。
彼らは言った。
「私たちは主があなたと共におられるのを見た!だから、このことを申し伝えたい。
我々はもうあなたと争うことはしない。あなたも我々と争うことのないよう契約したい。あなたは今、主に祝福されているのだから。」
そして彼らは帰って行った。
その日、イサクの僕達が戻って来て言った。
「私たちは水の出る井戸見つけました!」
「主があなたと共におられる!」
何と素晴らしい言葉ではないか。
あかの他人がそういう目で見た!
これ以上の価値ある言葉はない。
ただし、他人に見せるための信仰など出来ない。
意識するは、ひたすら「主の御目とみこころのみ」である。