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■ イエスの教会 / マルコ4:35~41

イエスの弟子達は各々、直接的に、個人的にイエスから呼び出されたのである。 誰一人、自ら志願した者はいない、と思う。 そのことは私達クリスチャンとて同様である。 確かに信仰に入ったプロセスと環境、状況にそれぞれ違いはあるだろうが、後から振り返ってみれば、やはりイエスから直接的に呼ばれたのである。 だからクリスチャンになれたのである。 仮に、である。 仮にあなたと彼との個人的関係が成り立っていないとすれば、はっきり言おう。 あなたはクリスチャンではない。 そして私達は罪の赦しをいただいた。 我が身の罪の贖いを彼がしてくださった。 これらはすべて、あなたとイエスが個人的に出会ったからである。 であるから、信仰生活とはイエスとの個人的関係の下にある。 私達はもっともっとこのイエスを知りたいし、彼の近くに居たいものだ。 と、思いませんか? ガリラヤ湖面は海抜マイナス213mと言われており、地中海特有の熱い空気は谷底に出来た様な湖面に吹き下し、時として激しい突風が巻き起こる。 それは実に凄まじい風であり、波は逆立って小舟をさえ呑み込むのである。 ある日の夕方、主イエスは弟子達に言われた。 「さあ、向こう岸へ渡ろう。」 弟子達の多くがガリラヤ湖で働く漁師であった。 この湖で漁師として生計を為し、湖のすべてを弁えた弟子達にとって、イエスの言葉は首を傾げるものであったか、もしくは不安を抱いたかも知れない。 そして案の定、不安は的中した。 急に吹き始めた風は大波を巻き起こし、小舟に襲いかかり、弟子達は死ぬ間際かと思った。 必死になって手で水を救い出していた弟子達がイエスを見ると、艫の方で枕をして眠っておられた。 誰かがイエスに向かって怒声を張り上げた。 「先生、我々が死んでも、何とも思われないのですか!」 そしてイエスはむっくり起き上がられると、波と風を叱りつけられた。 すると湖は大凪になった。 弟子達は心底驚いたと同時に、イエスの本性が益々分からなくなった。 人生に起こるのは摩訶不思議な出来事、理不尽な出来事、恐ろしい出来事である。 そして私達は、その瞬間に神もイエスも信仰さえも見失う。 仮にそうでなくとも、日々の生活においてさえイエスを余りにも簡単に見失う。 かの弟子達と比較して私達と大差は無い。 イエスは弟子達に言われた。 「どうして、そんなに怖がるのか。信仰がないのはどうしたことか?」 そう、咄嗟の出来事が起こった瞬間、私達は信仰など完璧に見失うのである。 本当に信仰を持っていたのか、とさえ後になって悔やむ程である。 目の前の出来事で頭の中は全て占領され真っ白け、である。 つまり、イエスが傍らにおられることさえ忘れる位、自分を見失うのである。 大切なことは、眠っておられようと、起きておられようと、イエスが此処におられることである。 教会にも突風や大波はやって来る。 そして教会はイエスを見失う。 笑い話ではない。教会だから見失うのである。 するとどうなるか? キリスト教会なのに、キリストが居ない教会。 それは既にキリストの教会ではない。 単なる人間の集団である。 それこそが、「あなた方の熱心がわたしを食い尽くす。」状態である(ヨハネ2:17節)。 忘れてはならない。 キリスト信仰とは、私が、あなたが、教会が頑張ってやっているのではない。 日々、常に、イエスに祈られて、させて貰っているのである。 「わたしはあなたの信仰がなくならないように祈った」(ルカ22:32)。 明日は我が身、を心に刻もう。 さて! あなたの教会にイエスがおられますか? あなたの人生にイエスがおられますか? あなたの一日にイエスがおられますか? あなたの礼拝に、祈り会に、イエスがおられますか? キリスト教のキリスト教たる所以は其処に彼がおられるからだ。

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