■ ワン・チャンス / ルカ16:19~31
人は世に生まれて以降、色んな瞬間、瞬間がある。 チャンス、つまり何かのきっかけとなる「時」は幾度かある。 そのチャンスを掴むか、逃すかは私たちの選択と決心に掛かっている。 但し、人生の岐路に置かれるのは、何回もあるわけではない。 振り返って見れば、「あの時」という瞬間を手にしたか、しなかったかで、その後の人生に変化をもたらしたかは、後日になって分かるものだ。 クリスチャンになって38年、私自身も思い出す岐路は幾つもあった。 一番初めは生まれて初めて、「神」を意識した1978年3月12日。 選択という意識は無かったが、イエスは私の内に訪問され、激しく戸をノックされた。 心の戸を開けなければ、苦しくて堪らなかった。 聖書はその朝に少しだけ読んだに過ぎないし、キリストのことも一切分からない。 それでも、数ページ読んだアブラハムの記事を通して、主は私に応答を迫られた。 6年後、平坦に思えた信仰生活の中で主は私を呼び止めた。 「将来に向かってあなたは何を選ぶ? これまでのように自分の決めた道を歩き続けるのか? それとも、わたしが示す道を選ぶのか?」 止まったその場所で約4年間、岐路を前にして行ったり来たりの道で迷い続け、結果的に44歳で神学校行きを決めた。 自分の意でなく、キリストの求めに因ると考える道は、毎日が葛藤と言い訳の時間だった。 三年間だけ、つまりいずれ終わりが来ることだけを灯りに思い神学校へ通ったものだ。 そのせいもあってか、毎日祈った。 「イエスさま、今日だけ守ってください。」 そう祈らなければ、もと来た道を戻ってしまいそうだった。 卒業が間近となったとき、苦しんだ三年間が妙に懐かしくなった。 そして更に二年間の専攻科に踏み出した選択は、あきらかに主に従う道であった。 そのとき、私の中では進路変更という「踊り場」は存在しなかった。 その階段を上り続けるのみ・・・ 三年間も葛藤した道を来た者として、降りることはあり得なかった。 ルカ伝に登場する「金持ち」と、「極貧ラザロ」の話。 毎日贅沢し放題に生きる金持ちと、金持ちの家から出る「生ごみ」で腹を満たしたいと願う全身おできのラザロ。 「犬もやってきてはラザロのおできを舐めていた」という表現は凄惨である。 或る日、ラザロが死んだ。 葬儀など別世界のラザロだったであろう。 きっと粗大ごみが捨てられるように埋められたのであろう。 だが、聖書は言う。 「この貧乏人は御使い達によってアブラハムの懐に連れて行かれた。」 やがて金持ちも死んだが、彼は葬られた(豪華な葬儀で)が、彼の送られた場所はハデスという場所だった。 熱くて、熱くて焼け焦げる様な苦しみの日々。 ふと見上げると、はるか彼方にアブラハムに抱かれたラザロが見えた。 金持ちは叫んだ。「アブラハム、どうかラザロをよこして、彼の指先に水を浸してこの舌を冷やしてください。炎で苦しくて堪りません。」 アブラハムが言った。 「あなたは毎日贅沢に生き、ラザロは苦しみの日々だった。第一、あなたの居る場所へ此方から行くことは出来ない。」 自分では選べない、神による逆転の裁きの結果だった。 金持ちだからハデスに置かれたのではない。 彼の門前に、弱って体を持たせかけ、死ぬ日を待つだけのラザロの存在を、毎日眺めていた。情け容赦ない傲慢と自己中心が、金持ちがハデスに落とされた理由だった。 金持ちは叫んだ。 「では私の五人の兄弟達まで此処に来ないで済むように、ラザロを使いに送ってやってください。」 アブラハムが言った。 「彼らにはモーセと預言者がいるではないか。もし、その教えを聞こうとしないなら、仮に死人が生き返ったとて、彼らは聞き入れはしない。」 人生には限りなくチャンスが巡って来るのである。 神はそういう方である。 問題は、私達がそれを自分の手で掴み取るかどうかである。 失敗を恐れるのか、決断に至らないのか、今の延長だけが安心なのか、手を拱いてしまう。 だが、いつの日かチャンスが巡って来なくなる時が来る。 そしてワンチャンスも手にしないままの人生にしてしまうのだろうか。 若い日だからこそ、失敗しても肥やしとなるし、やり直しも出来る。 聖書の神に出会って欲しい。 聖書は人間の救いの為であって、宗教のためではない。 キリストの無限の愛に出会っていただきたい。